20201011

5時半に起きポットからコーヒーを飲んでいるとベランダの

ベランダ?

ベランダの…

コーヒーを飲んでいるとベランダの

ベランダの…ベランダ…

あ…あ…

いわゆる生活というものを感じた。おう、これぞ「生活」だ。そして私は買い物に出かけた。

なぜなら日曜日だったからである。私は5時半に起きポットからコーヒーを飲んでいるとベランダの…

ベランダ…ベランダの…

私はコーヒーを飲んでいると(おう、これが「生活」か)と思った。そして(マグカップを買おう)と思った。台所は食器やコップが散在してドス黒くなっていた。私はそれをすべて捨てて(マグカップを買おう)と思いついた。部屋の掃除をし、台所を綺麗にし、洗濯をし、風呂場とトイレを綺麗にし、コインランドリーの乾燥機へ服を持っていき、再びコーヒーを飲み、部屋の空気を入れ替え、そうこうしているうちに時計の針が11時になり、私は(「お出かけ」をしよう)と思った。(皆がやっている「お出かけ」を。とびきり濃いやつを)と思った。しかしすべては冗談に感じているに過ぎなかった。(毎日が休みだったらこんなに部屋が綺麗になる)(そして何というか暇になる。意味のわからない「お買い物」をすることになる)と思った。それは側から見たらヒステリーなのだろう。いつしか清水と私は池袋の街をさまよい、幸せそうな人々を指しては〈ショーウィンドウ〉と名付けた。それはマネキン、ガラス向こうのフィクション、資本の影、消費の象徴であった。しかし我々は完全に可哀想だったのだろう。私なら今でも同じだろう。なぜなら私は日用品を買いに池袋サンシャインシティへ行くと途中でマグカップなんてまったく欲しくなくなった。それはそうだ。だってマグカップなんて買う必要まったくないのになぜ朝に(マグカップを買おう)などということを思いついたのだろう。私は「やれやれ」と思った。「やれやれ。一体僕は何をしているのだ? 早く帰ってウイスキーオンザロックが飲みたかった。グラスいっぱいに氷を入れ、スコットランドからやってきたウイスキ」というようなことを考えていた。本当はそのときはそのようなことは考えていなかった。今そのときそう考えていたというふうに私は書いたのだった。なぜなら私は昨日村上春樹を読んだからだろう。