20200912

あいみょんのことを理解できないと感じたが、果たして俺は彼女のことを本当に理解しようとしたのだろうか。

俺は

そうか。私は今自分を「俺」と言った。他者は私に自己を与えてくれる。それが“恋愛”なのか。俺はその“性”すらも相対的なものだ。そこに女がいてくれれば俺は男になれる。俺は彼女のことを理解できないだろう。だがこれが恋愛の極意なのだろう。俺はたぶん彼女をはじめとする女の気持ちを理解できないかもしれない。そしてその不能感こそが男であることの全能感に裏返っているのかもしれない。自分が何者かになれるのは気持ちの良いことだ。自分が男だと思うと気持ち良い。自分が女だと思うと気持ち良い。自分が男でも女でもないと思うと気持ち良い。自分が社会人だと思うと気持ち良い。自分が若者だと思うと気持ち良い。自分が無職だと思うと気持ち良い。自分が芸術家だと思うと気持ち良い。自分がロックミュージシャンであると思うと気持ち良い。自分が日本人だと思うと気持ち良い。自分が父親だと思うと気持ち良い。自分が母親だと思うと気持ち良い。自分が夫だと思うと気持ち良い。自分が妻だと思うと気持ち良い。自分が王だと思うと気持ち良い。自分が奴隷だと思うと気持ち良い。自分が孤独だと思うと気持ち良い。自分が幸せだと思うと気持ち良い。

だが自分一人だけが気持ち良くなったらそれは世界や物語にとって無意味なことだ。七王国の群像劇におけるアリア・スタークの物語は、ある一方では彼女が〈個〉のアイデンティティを獲得するための長い物語であった。それは同時に、物語における〈キャラクター〉とは何かという、議論しやすいお題が色々と含まれている物語であった。と思う。

アリアは北部の名家スターク家の次女である。姉サンサの妹であり、弟ブランドンの姉である。ウェスタロスに現存するいくつかの名家にとって、子の名前は各々の祖先の英霊や旗標に関連する城主の名から取られるのが一般的だと思う。〈アリア〉という名前は彼女のほかには見られない。

彼女は淑女の刺繍針よりも剣の針“ニードル”を振るうことを好む、やんちゃでおてんばな少女であった。“王の手”であった父エダードが処刑されてからは、彼女の運命は切って落とされたかのように走りはじめることになる。彼女はその長い旅路のなかでいくつもの名を持つことになった。ラニスター家の追っ手から逃れるため少年に扮したときは〈アリー〉となり、またハレンの巨城で給仕に扮したときは〈ウィーゼル〉となり、やがて“猟犬”サンダー・クレゲインと行動を共にしたあと復讐を果たすために東のブレーヴォスへと渡った彼女は、〈顔のない男たち〉と呼ばれる不気味な暗殺集団に師事することになる。そこでは“誰でもない者”になるため下記のような謎かけゲームが行われる。

“お前は何者だ?” 

“何者でもない”

“嘘だ”

返答を間違えれば鞭で打たれることになるが、何が正解なのかまったくわからない。これは〈顔のないゲーム〉と呼ばれ、集団に認められる“誰でもない者”と呼ばれる暗殺者となるためには、文字どおり自身の名前とアイデンティティを放棄しなくてはならない。かつてアリア・スタークだった少女はそこで〈牡蠣売りの少女〉となり、ある一人の女優を殺すという試練を師であるジャクエン・フ=ガーから与えられることになる。〈牡蠣売りの少女〉は〈旅役者の少女〉となり、彼女に近づき信頼を得るが、やがて女優の孤独な人生に共感した少女は、彼女を殺せなくなってしまう。

私は何の話をしているんだろう。きわめつけというか、とりわけ印象的な場面は、その女優が舞台上で演じる七王国の群像劇を、かつて〈アリア・スターク〉だった少女が群衆に混じって見ているシーンであろう。舞台の上で繰り広げられるのは彼女がこれまで〈アリア・スターク〉として辿ってきた物語であり、七王国の玉座を巡る争いを牽引してきた無数の名を持つキャラクターたちの物語である。

ブレーヴォスへと渡ったアリア・スタークの物語線の場面のすべては、本土の無数の物語線に比べてずっと抽象的で象徴的なものばかりに思える。少女は試練を果たせなかった罰として視力を奪われ、浮浪児“ウェイフ”と呼ばれる別の少女に命を狙われることになるが、すべての“名”は劇中の役割であり、そこが舞台の上であろうとなかろうと、われわれは自ら与えられたキャラクターに沿って生きる無数の群像のひとつに過ぎず、そこでは“誰でもない者”が影のように本質的な実体を持つのかもしれぬ。

しかし少女は最後には浮浪児“ウェイフ”を殺し、師であるジャクエン・フ=ガーが繰り返す不毛なゲームに対してある決定的な答えを突きつけることになった。

“お前は何者だ?”

“私は〈アリア・スターク〉だ”

ジャクエンは微笑み、沈黙によってこれに答えるが、何がどういうことだったのだろう? と思わせるほど、とにかくこれが正解だったのだ。すべてが曖昧で伝承的というか、ほとんど古代神話のように象徴の残滓しかないような物語だ。彼女は〈アリア・スターク〉になることによって“誰でもない者”の暗殺術を取得し、ブレーヴォスを去ると女王を殺すために王都へと南下することになった。

しかし彼女が辿った物語線の凄まじさはこんなものではない。と思う。やがて〈アリア・スターク〉は人間世界の“死”そのものを打ち砕き、英雄神と化してほとんど物語をはみ出していくことになるのだが、最後のシーンでは、灰となった王都をさまよい、血と涙を流しながらドラゴンの炎から逃れようとあがく彼女の姿が描かれ、ことさら“人”である姿が強調されているように思える。でも、だから何だと私は言いたいのだろう。

何より彼女の物語の終わり方こそが、何というか、これ以上ないくらい、素晴らしい終わり方であった。と思う。神話世界の英雄像が地上のリアリズムにまで徹底的に落とされるのが七王国の物語の特徴だった気がするが、そういった現実的な?物語において、“西”へと去った彼女の物語のラストシーンは、何よりも象徴的なものだったと思う。

ウェスタロスの西には何がある?地図には載っていない。私はそれが見てみたい」

1万年前、ウェスタロスと呼ばれるこの大陸を発見したのは東から現れた民族である。彼らは〈最初の人々〉と呼ばれた。その後、アンダル人およびロイン人が東から渡来した。

彼らは“人間”と呼ばれた。彼らは火の中から鉄を生み出し、相互に交わり殺し合い、やがて“国家”と呼ばれる不思議な世界を創造した。アリア・スタークが去ったのはその地図の向こう、はるかな西、というか時間的には次の1万年、〈未来〉と呼べるものである。

「知りたければ、見に行けばいい。それが調査兵団だろ?」

エルヴィン・スミスもそう言った。エルヴィンがこの物語を知ったら、やはりいつもの不敵な笑みを浮かべることだろう。そしてそれを実際に見に行くことだろう。それが人の物語ではなくて何だというのか、私は知りたい。俺はあいみょんのことや“恋愛”と呼ばれるものが人の心にもたらすものについて知りたい。というようなことを感じる。