20200825エルヴィン・スミス

この世は波で満たされている。この空間は揺れていないところがない。この世に物質があるかぎり、音源は絶え間なくどこかで発生することになる。物質というのは水や空気や人体などのことである。また重力などの〈エネルギー〉と呼ばれるものがこの宇宙を満たしている。何というか神の概念に似ている。そう考えるとテクノロジーの発展によって極端?にハイファイ化した2020年現行音楽において自然環境音のサンプリングや音色のアンビエント化が多く見られるのは、有機的なものへのノスタルジーというよりも、何というか、神的なものをいま一度ふたたび音のなかへ呼び起こそうとするかのような、一種の呪術的な行為にも思える。しかし、何がどうであれ、そう考えた方が非常に熱くなれる。つまりこれが“人”なのだと。

「俺は生まれたときから、俺のままだ」

エレン・イェーガーはそう言った。つまりそれが“人”なのだと、私はそう考え、そうすると、非常に熱くなれる。生死の冷たい無意味さに熱い“意味”を与えるのはほかならぬ私であり、誇り高き調査兵団の長であるエルヴィン・スミスもいつしか同じようなことを言った。エルヴィン・スミスは奇特な人物だ。彼のような人物が剣やペンなどを使って、この世界を思い通りに描くのであろう。私もエルヴィン・スミスのようでありたい。だが本気でそう思っているわけではない。つまり、そうであろうとすれば、楽しい。そうではなく、千川高校野球部エースピッチャーの国見比呂は、あるときこう言った。

「何でもいいぜ。熱くさえさせてくれれば、な」

つまりそれが“人”なのだと、そう考えれば、非常に熱くなれる。そして、熱くなれるのならば何でもいい。私は動物だから、こだわりはない。クリストファー・ノーランという監督は、狂気的なまでに「実写」にこだわる。ビルが倒れる画が撮りたいと思ったら、ビルを実際に建てて、それを壊して、撮る。以前Twitterの中で、彼のそういった手法を指して、「太古の“映画”と呼ばれた何かを呼び起こそうとするかのような、呪術的な行為」だと発言していた人がいた。2020年の現行音楽における音色のアンビエント化も、同じことのように思える。しかしいつの時代に限らず音楽や映画は、つねに呪術的な行為になっていなくてはならないだろう。星野源の歌詞に、

“はじまりは炎や棒切れではなく音楽だった”

というものがあるが、私は、炎や棒切れの前に音楽があったのではなく、炎や棒切れそのものこそがはじめから音楽だったのだと、この波動とエネルギーに満ちた世界に生きていると、そう思うが、しかしそういう言い方をすると、スピリチュアルな感じに響くが、そうではない、これは、人間の好奇心が爆進した“科学”という学問の一種なのだと、私は思うが、きっとエルヴィンも、何というか、同じことを言うだろう。