20200731雨

10時に起きた。現場は7時に朝礼だった。頭がすっきりとしていた。遅刻することに何も感じない。「仕事なんてどうでもいい」と思っているわけでも「これが俺の反抗心」と思っているわけでもなく、何も感じない。何というか時計の数字と自分の時間がズレ続けている。休むなと言われても休むし、休めと言われても休まないというような感じがする。ただ時間や人生のすべてが不思議に感じる。この世は一体何なのだろう。ということ以外何も感じぬ。周りのことは疫病、雨、という感じがする。世の中が暗いと自分の人生に関係なくても気になる。宮迫博之がこのタイミングで『雨上がり』という曲を発表したことはある種の運命的なものを感じる。それは彼自身の雨であり、彼ら自身の雨であり、また我々の雨のことでもある。この〈仕事〉と呼ばれるものは、普通は楽しく、あんなに燃え落ちるようにやり続けていた2年前は何だったのだろう。今は毎日深夜までやろうなどと思わない。〈会社〉“カンパニオン”の屋上で眠ろうなどとは思わない。すべて飽き、何も感じなくなってしまった。しかし他人に合わせるのが社会人ではなく、他人を巻き込み好き勝手にやるのが社会人であり、この世に“社会人”ではない人間は一人もいない。そしてこの社会はそうやって誰かに作られたものであるからして、ゆえに壊すも作り変えるも自由だが、我々に降りかかるのは疫病や雨、あらゆる破壊行為、領土問題、反政府活動、人種問題、紛争、緋衣のごとき流星、倒れる神木、揺れる大地、ということであろう。宮迫博之の『雨上がり』という曲は象徴的なものであった。そしてあの声は良かった。雨の上がったその先の虹しか見えていないような、独りよがりで、夢みがちで、現に雨が降っているのに、まったくそれが見えていないかのような、自分のことしか考えていないような、純朴で芯のある強い歌声、素直な声、馬鹿野郎の声、彼が彼自身である声、誰も真似することのできない声であった。