20200310①

YouTubeを見ると別の人の人生があって、たとえそれが任意に編集された映像だったとしても、繋げられた時間の見世物を見るのが不思議な楽しさがあると思う。朝起きてカーテンを引くと陽光が白い部屋の中に差し込み・顔を洗い化粧水のようなものをつけ寝癖をアイロンで直し・台所のコンロを点けてカブの味噌汁と鮭の西京焼きと白米と納豆とヨーグルトと緑茶を作ると小さなちゃぶ台へ移り「いただきます」と言ってそれを美味しそうに食べ・食べ終わるとすぐに皿洗いを済ませて軽い掃除に取り掛かり・朝の太陽の中で洗い立ての洗濯物を干している人を見ると、何が楽しくて生きているのか、と思う・興味が湧いてくる。その人にとっては料理が楽しいのだと思うが料理の楽しさはわかりそうでわからないのが個人的にいつも惜しい気持ちになる。料理や掃除や洗濯や毛づくろいの楽しさはいつもあともう少しでわかりそうなところで夢から覚める気がする。かと言って自分の人生のどこが楽しいのかと考えると「無常感」が楽しいと言えばそれまでだが個々人の無常感は誰とも共有できないゆえすべて死のルーティンのように思われる。この世は開かれた巨大な書物でそこに書かれた文字を読み尽くすには人ひとりの人生では短すぎるということがわかっている以上に幸せなことなどない(気がする)という無常感において、誰かと何かを共有するという奇跡的な可能性があくまで単なる可能性として余剰物のように残されているだけの人生が無常ルーティンのように思われる。YouTubeを見ると別の人の人生に入ってゆくこと可能のように思われる。そしてそれが何とも言えない気持ちの発生源になるように思われる。綺麗な部屋で料理や洗濯をすると楽しいのか。カブのお味噌汁美味しいのか。具体的にどう美味しいのか。あともう少しでわかりそう…というところでいつも動画が終わるのが惜しい気がする