20200208ガラス玉

建設現場は非常に興味深く、これ以上シンプルにならない人工世界の雛型であり、あらゆる観念が物質によって担保される地上の楽園だと思う。もしくは地獄だと思う。だがそれが良いと思う。「責任」や「思いやり」や「生きがい」などの頭の中の観念は現場にはなく、代わりにそれらが「ない」にも関わらず「ある」ことを保証するものとして、あらゆる元素から成る固体・液体・気体状の建築部材がそこにある。ということであろう。置いてある。または立て掛けてある。あと吊り下げられてある。現在の人間のテクノロジーや認識の限界において「物質」は三次元である(たぶん)と思う。BUMP OF CHICKENの『カルマ』でも同じことを言ってた。“存在が続く限り 仕方ないから場所を取る ひとつ分の陽だまりに ふたつはちょっと入れない ガラス玉ひとつ落とされた 落ちたとき何か弾きだした 奪い取った場所で光を浴びた”  と言ってた。それはたとえば地面に描かれた円(二次元)ならば我々の身体(三次元)は悠々とその白線を越えて中に入ることができるが、ガラス玉などの三次元の球体ならば我々の身体はそれに弾かれる。ということだと思う。(円と球体の例は『三体』で出てきた。)とにかく建設現場の部材は本当に究極の拒絶体であると思う。そしてそれが人と人との間に「責任」や「思いやり」や「生きがい」などの、〈ない〉にも関わらず〈ある〉ような類のあらゆる観念の約束を、各次元の最果てで担保してくれている。ような気がする。かもしれない気がする。それが素晴らしい。しかし何より人間の身体こそ物質であり、思考は我々の三次元の細胞が行なっており、それがやばい。そして次元がやばい。そんなものが存在することがやばい。「存在」という概念も我々の認識のひとつの限界に過ぎないのがやばい。現場にいると、建築部材についてもっとミクロな?ことを考えるのだが、いざその場を離れ書き始めると、結局神学的な机上の空論になる。とにかくここは地獄。しかし私にとってはどこも天国。ということだと思う。しかし「私」などという概念がどうでもいい。