20191121よう頑張った

物語りは簡素だった。〈一身上の都合で離れ島から上京してきた澪は父の旧友が営む銭湯で働きはじめる。〉といったものだった。

「うまくゆかないこともあるけれど…」的なことだった。

「友だちができました。好きな人ができました。」的なキャッチコピーであった。

「うまくゆかないこともあるけれど…的な

、私はここで生きてゆ…」的なことだった。

文学的な情緒・できあいの感情のアクセサリー・「わかりやすさ」・そういったものが特殊合金のように練り混ぜられ、ハート型の電極と化し私の脳に刺さり

おっ、、、おっ、、、

ということだったと思う。何が言いたいかわからない上、映画に失礼だと思う。素晴らしい物語だった。素晴らしい演技だった。素晴らしい画面の光彩だった。これが映画の一番素晴らしいところだった。映画は目や耳で魅せることができるのだった。カットの編集は時間的な映像の動線をつくることができるのだった。物理的な音やメロディ化された曲なども自由に組み合わすことが許されるのだった。しかも生きた人間の表情や声音や仕草でわずかな感情の機微なども言語なしで描けるのであった。そのすべてがこの映画にはあったため、静的かつ切なさに満ちた日常・物語の追体験として具現化されたハート型の電極が私の脳を支配したのだと思われた。

しかしこれは主観の感想の域を出ず、それでも私は批評や分析はできない・能力がないと思う。安易に感動したものごとについて浅く散漫に思考することしかできず、(これは『わたしは光をにぎっている』という映画を見たことについての話だった)しかし演技というものはなぜこんなにも素晴らしいと思うのか。これを見る者は主演の演技に魅せられ・まるで自分の姿のように眼球から引き込まれるのと同時に・過去の自分や他人の面影のように思わせられるのと同時に・まったく宙にふわふわ浮いているような神秘的ともいえる無力さに共感させられると思う。人の演技というものをただ見るということの快楽に目覚めつつあると思う。人の歌声、人の絵、人のダンス、人の考え

同時に澪と私の生活はかなり違うと思った。しかし同時に同じ生活でもあると思った。俺はなぜ会社に属して仕事をしているんだろうとふと考えるとこれといった答えは出てこないがしかし日々が退屈なわけではなくむしろ世間一般的には平均以上ストレスのある現場かもしれないが、個人の活動は「誰」の「何」とも比較できないゆえものすごく独りだという感覚が皆あるのだと思う。だから「職場」の誰しもアルコールとニコチンの慢性的な投薬・または陽気さを必要とするのだと思う。だが私は「俺はこれをこれだけやっている」的なヒロイズムに陥りたくなく、かと言って「こいつら馬鹿だ。いかにも辛そうに見せる羽虫のダンスだ」などと周りを卑下して自分を保つのもいかがなものか。なので一人で〈イグ〉ことさえ済んでしまえば、あとは全部アッパッパー(建築用語:物質間の奥行きに対して物理的支持・障害が無いこと)ということになる。

それに比べて澪はそのままの弱さと無力さであり、それはまた強さだった…などと言って、あなたは糸井重里的な感受性ナデナデの文言でウットリしたいのか。と言いたい。私はしたくない。しかしよう頑張った。よう頑張った。澪、よう頑張った。