20191115自分のことばかり

「真面目さ」や「真剣さ」というものをかつて信奉していた盲目的・パンク的内面だった。純粋?馬鹿?かつ原理主義的?な精神だったと思う自分。

しかしよく考えてみれば「真面目さ」や「真剣さ」とは何なのか?と思うようになった。人間には「こうあるべき」という姿はなく、世界はすべて混沌で狂ったユートピアなのではないか・自然はカオスなのではないか・人はアニマルなのではないのか、という考えのなかで、

これは「自分」の話であり、自分が「自分」と便宜的に決定することにより相対的な位置を描こうとしている「何か」についての話であると思う。

つまり「真面目さ」「真剣さ」というものについて、大森靖子さんのライブを見て思い・考え『なるほど』と思った。『こんなに真剣で真面目な人間を見たことがあったか』『あった』『しかし自分は真面目さや真剣さを疑うようになった・そしてすべて混沌のなかで絶頂グためのダンスになった』

『そうか!ダンスか!』と思った。大森靖子さんはステージに登場するとスピーカーの上に飛び乗った。私は大森靖子さんの曲はほとんど知らず『ダンスだ!ダンスだ!』と思った。そして『何て真面目なのか』と思った。観客は熱狂的であり、そこかしこに叫ぶ声・すすり泣く音・がした。10人以上が目の前で倒れスタッフに搬送されていった。しかし『大森靖子。何と真面目なことか』。俺は偉そうに思った。おそらく真面目さ・純真さ・真剣さ、に「意味はあるのか?」という問いはここではあまり機能せず、

問題になるのはもっと浅いレベルでの刻印的真実、、すなわちイデオロギーとの同化の強度・シンクロ率の話だと思う。[イデオロギー]カタカナでクソみたいなインテリ方言使って何が楽しいのか?? だが彼女は強く同化している。そういう話だと思う。もちろん褒め言葉・その強さは類まれな才能なのだと思う。そしてそれは誤解を恐れず言えば、ヒトラーなどの歴史的なパフォーマー?と同じ類の素質であって、狂気的な結晶のように澄んでいて強く、人工世界に対して十二分に煽動的であり創造的であり、カリスマ性と世間は呼ぶと思う。『しかしそんなことはどうでもいい』と思ったのも事実で『ダンスだ!ダンスだ!』それしか考えておらず『なぜ彼女はこうも他人を救おうとするんだろうか??

“助けてって言える自分であってね”

とMCで言った。しかしそれは呪文や詠唱のように儀式化された〈セリフ〉であり、一種のパフォーマンスであった。それが上手いと思った。それは私の中ではトムヨークの姿と重なった。大森靖子さんもまた同じ、ステージ上で我を忘れたように躍り狂い・めちゃくちゃな歌い方をしているようでじつは頭は冷たく冴え渡っていて、醒めた目で自分と観客を見ている。それは演者の素質であると思う。素晴らしいパフォーマンスだと思う』

それと同時に、

『しかし自分だったら、まして今の自分だったら、十代や二十代の弱った少年少女の心を癒し、慰め、救おうとしないかもしれない・というかそもそもそういう発想が出てこない。というかこんなこと考えている時点で会場のグルーヴからはズレているのかもしれない』

『しかしなぜ大森靖子はそんなに真剣なんだ⁈』と思った。そしてそれは私にとって感動的な気持ちだった。『どうしてそんなに救おうとするのか?人はそれぞれ違っていて別の問題を抱えているのに、どうしてその全てを救おうとするのか?そもそもそういう人たちは「つらい」とか「さびしい」とか「死にたい」とか「優しい」とか「悲しい」とか、そういうものについて考えようとしない人間なんじゃないのか?だから既存の観念に同化してウットリしているんじゃないのか?でも俺の性格が最悪なのか?俺が選民思想レイシストなのか?考えてみればそうだという気がする』『でも私は優越感のようなものを感じているのかもしれない。私は落ち込んでいる人たちを見て安心しているのかもしれない。弱った人たちを見て自分と比較するように精神を検証しているのかもしれん。なぜこの人たちはこんなにステージの上にいる別の人間に同化できるのかわからん、と言って、「自分に比べてどうしてこいつらは」の定式を使って俺は一人キモチ良くなろうとしているのかもしれない』

まあいいか!

というか降りる駅なのでやめる。

でも大森靖子さんは本当に素晴らしかった