20191017エーテル

あいみょんを聴くとやはり素晴らしいと思った。

まるで声が光の導体・エーテルのようではないかと思う。声の音色は地上を囲う天体の一要素であるにも関わらず、重力の制約を受けぬ。それは目に見えぬ羽のごとく自由に飛び回り、気ままに光と結合しキラキラ鳴り響くと言えると思われる。何を言ってるかわからん気もする。しかし何度も言うように「瞬間的シックスセンス」というアルバムのタイトルがすべて、–––第六感を媒体とし、瞬間的に閃く–––という、いかにもエーテル的、いかにもBLEACH的な言い回しではないか。いかにもポエティックな言い回しではないか。ここで言うエーテルとは、まさに初めからそこにあるかのように思えるもの・という意味であり、あいみょんの声は特異で奇態なものでは決してなく、きわめて自然・風・気体という感じ・まさしく火や電流や光がそこに流れるために必要な空気そのもののように思われる。空気それ自体には人を挑発したり内省させたりする要素はなく、ただ近くの場所に「なんとなくある」感じ、それがあの声にはあると思われる。そしてそういう声は意外と珍しいのではないかと思われるが、しかしあいみょんの歌声は単に耳触りがいいとか・声がいいとか、そういうものとも少し違う気がする。パッと連想ゲーム的に思いついて荒井由美の声、が、果たして空気のようかと言われるとやはり違うと思う。というか空気のようだと言うのはどういう意味なのか、うまく説明ができない。

あいみょんの声をエーテルと呼ぶとしたら、それに一番近しいものは連想ゲーム的に思いつくとしたら草野正宗なのだろうか、わからない。彼の声は単に耳触りがいい・声がいい・清涼感がある透き通った…というようなものとは少し違い、もっと複雑?もしくはもっと単純だと思われるが、しかし草野正宗も違うと思われる。彼の歌声・歌い方にはもっと面倒な要素があり、おそらくそれは彼自身の自我のあらわれだと思う。個々人の自我がいかに声にあらわれ出るかということは、桑田佳祐が一番感動的な見本になっていると思う。彼ほど自身の我欲を御しつつ自身の我欲に溺れた歌声はないのではないかと思う。しかしあれはひとつの「歌い方」の極地でもあると思う。

歌は、①声質②歌い方③サムシングエルス(言語化できない何か特別なもの)の三つの点から論じることができると思うが、今ここであいみょんについて一番考えたいのは③における「何か」についてかもしれない。歌というものについて考えるなら、ある種の思考実験として、あるひとつの歌を、「草野正宗が歌ったらどうなるか」「桑田佳祐が当たったらどうなるか」「桜井和寿が歌ったらどうなるか」「米津玄師が歌ったらどうなるか」「中村佳穂が歌ったらどうなるか」「星野源が歌ったらどうなるか」「折坂悠太が歌ったらどうなるか」「山崎まさよしが歌ったらどうなるか」「椎名林檎が歌ったらどうなるか」「アリアナグランデが歌ったらどうなるか」「デーモンアルバーンが歌ったらどうなるか」「aikoが歌ったらどうなるか」「井上陽水が歌ったらどうなるか」「ボブディランが歌ったらどうなるか」ということを考えると、非常に豊かでおもしろいと思う。そしてあらゆる歌を「あいみょんが歌ったらどうなるか」と想像するとやはりあいみょんが単なる流行りの歌手じゃないことがわかるような気がするが、わからない。うまく言葉にできない。

歌に関する①については先天的なもので当人にはコントロールできないが、②はある程度作為的に「つくる」ことができる。その事実が、やはり世の中に無数にある「歌」というものを考えるときに、泣きたくなるような感動的な感じがすると思う。カネコアヤノという人は、誤解を恐れず言えば、ユーミン的で日本歌謡的・牧歌的な歌声を持っているが、やはりそれに加え壊れそうな激情的な要素があるのが彼女だけの歌声なのだと思うが、おそらくあれも当人の自我のあらわれ→無意識+意識=歌い方、という感動的な式の、カネコアヤノなりの答えなのだと思う。

だからあいみょんの何がそんなに凄いのかというと、やはり、彼女自身の自我とその表出の仕方なのだと思う。世間的にはそれはあいみょんの「キャラクター」と呼ばれてるものだと思う。そしてそれはまさしくその通りで、あいみょんがなぜこんなに売れたのかというのはやはり彼女のキャラクターであり、キャラクターとはそのまま歌い方であり、その色んな折り重なったところの奇跡的な要素がエーテルと呼ばれてるものだと思われる。『二人だけの国』という歌を聴くと、やはり「ああエーテルだなあ」と思うと思われる。そしてもしかしたら、その理論に接近しようと試みれば、エーテルは作れるかもしれない。と思った。