20190923五等分の花嫁

“人”と呼ばれる動物––それが「一人ではできないこと」、これに感動する・猛烈に感動すると思う、死ぬほど感動すると思う、心臓の血管が融解しそうになる(胸の奥がキュンとなる)胸が締め付けられる思いになると思われる、〈新世界の神〉を称した幼稚な大量殺人犯・キラをついに追い詰めたニアの台詞「私一人ではここまで来られなかった。

“しかしメロと二人ならできる”

“二人ならLに並ぶことができる”

“二人ならLを超えられる”  」

なんと感動的な台詞か。と思った。

『五等分の花嫁』という漫画では、ヒロインの五つ子たちはかつて意識も思考も混濁した“ひとつ”の存在であったが、やがて思春期に差し掛かるとそれぞれに自我が芽生えバラバラの存在になってしまった。ということだった。お互いがお互いの人格のなかに不和と緊張を見いだすようになり、それが主人公の“男”の存在を中心に一気に加速して「恋」というものを巻き込みどんどん壊れ・変わっていくというのが感動的な気持ちになる。彼女たちの存在は根本的に〈ボディが五等分されている〉という約束に規定されているというのが感動する。「私たちは性格も特技もバラバラになってしまったけど、だからこそ補い合えばいま、100点が取れる」というような台詞がどこかであった。幼少期の幻想的な“ひとつ”のまどろみのなかにあっては決して到達し得ない巨大な苦難と報酬に、彼女たちは〈五等分〉というボディの制約と誓約を持ってついに到達しうる、というような可能性が泣けると思う。

同じように私たちも二等分・三等分されている、と私は馬鹿なので誰かといるといつも感じるが、これは非常にBUMP OF CHICKEN的であると思う。BUMP OF CHICKENはやはり世代的にエヴァンゲリオン的な想像力から出発し、つねに対のイメージ〈人類補完〉的なイメージでずっと歌詞・雰囲気をやってきたが新譜ではついにすべてが解放され感動的なオーロラの肖像になったと思う。全編を通して歌われているのはすべて〈物理的な抱擁〉という感動的な条文であってこれは「一人ではできないこと」の究極形だと思う。つまりただ単に誰かを抱きしめることであってそれ以上でも以下でもないことだが、これは“ひとつ”のボディでは物理的になし得ないことなので本来は詩情を超えてはるかに感動的な事柄だと思われる。でもそれも飽きはじめてきたと言える。ボディとボディの〈物理的な抱擁〉みたいな文学的な情緒ゆったりでしんみりしたものよりも、ニアとメロ、またはあの五等分の花嫁のように、「二人だから」「五人だから」〈できる!〉というような純粋なマンパワーというものに感動すると思う。色々とあったが結局はこういうことを思った。ドクターストーンという漫画は人間の良いところをたぶんすべて描いていると思う。