20190909人間だいすき

そのとき村岡は「終わらせる」というようなことを言ったがあれは実は死ぬことを恐れていたのではないか。と思った。その気持ちはかなりよくわかる。だって待つよりも行くほうが良い。と思う。しかし私が思ったのはそれだけでない。と思った。

民衆の政治(意見)的な対立というものがあるが、あれは各人がそれぞれ強固なイデオロギーというものに〈自分〉を「意味づけている」のと同時に、みんなこの世界というものに正解のかたちがあると思っているので「敵」は敵に見え、「悪」は悪に感じ、「日常」は日常のような気がしておる。しかしこの世界にあるべきかたちはない、どんな戦争も平和も、ある一時代のきわめて限定された一地域の出来事に過ぎず、それは混沌のゲーム(たとえば政治的・経済的な、複数の人々が織りなす世界の、そういう、、)そういう感じに思える。世界はずっとゲームの過渡に過ぎず、ゲームには基本的にプレイヤーがいると言える。プレイヤーは基本的に混沌を楽しんでいると言える。国を興したり亡したりまた遥か彼方に超越を目論んだりする人間の想像力は素晴らしいと思う。だが世界の紛争や貧困などもひっくるめて「ゲーム」と私が書くのは生命を軽んじているのではないが、自然の狂った幾何学的運命の中においては、誰しも身体が“死んでいない”ことがすでに奇跡と言えると思う。というか、そもそも「死ぬ」とは何か? ということを、実家のポルちゃん(セキセイインコ)が死んだときも思った。しかし「死ぬ」という言葉や観念や想像と、実際に“ボディがこと切れる”こととは無限の隔たりがあるが、それは当たり前だと思う。

だから混沌のゲームは本当に素晴らしいのか? と私は思った。世界は本当はまったくの宙づりで、安定したところがひとつもなく、どこもかしこも触れられず決して掴めないヤベエ霧かくそデケエ渦のような感じがする。うわああああ‼︎‼︎ みんな発狂すると思う。なので発狂しないために人はみな舞い、そのダンスは、そのダンスは、そのダンスは、武器のように、武器のように、武器のように、自己防衛の、自己防衛の、自己防衛のための、現在への、現在への、現在への抵抗、、、それをみんな、やっておる。なので忘我は自己防衛のための手段に過ぎず、狂った現在に抵抗するために、人は舞わねば。“ダンス”とは世界を形成する文字通り社交的な振る舞いであり、そのひとつひとつの振り付けこそが“観念”というものの基本的かつ極限的な形態にほかならないような、そうでもないような。

すなわち“イデオロギー”というものである。人は「仕事ができる自分」を「仕事ができる感じ」で「見せ」たりする。しかもその振り付けはマジで社交ダンスそのもので、相手がそのように舞えばこちらも応えるように舞う、ときたもんだで。誰かが「仕事ができる感じ」の振り付けで舞いそれを相手に「見せ」れば、相手(「仕事ができる人」)は、その誰かに対して安心感を抱くのであった。それすなわち“社会人”という名のイデオロギーに自分を同化させているので、できるんだろうか。もしくはその振り付けで舞うことそれ自体が、イデオロギーとの同化とも言えるんだろうか。これまた“日本人”、“韓国人”、“中国人”、アメリカ人”、いろんなイデオロギーがあり、どれに同化するかは実は格ゲーのキャラ選択のように自由であり、またその選択自由性は、昨今のブームでもある「私には“人種”も“性別”もない」的な、まっさらになったつもりでも、それもまたダンスと言える。人はみんなそうやってお互いに舞わないと、そもそも世界を形成できないと思われる。世界は社会という言葉にも言い換えられようと思う。まさにノーベンバーズの歌詞であった。

“リズムに合わせて呼吸を合わせて

やっぱ合わないなってところ愛すのさ

ちょっといい加減くらいで別にかまわない

さあ歌おう天使たち

さあ踊ろう天使たち”

ということだった。あれは完全に世界を形成する「社交ダンス」というものだで。が、あくまで歌詞のなかでは〈天使たち〉に語りかけているというのが、週刊少年ジャンプ的な想像力で泣ける。

世界がそっくりそのまま宙づりで、不安定でむき出しで狂っていて為すすべがないことは、たしかにそれはそうだが、しかし私たちは防衛のために舞うのと同時に、またその事実をそっくりそのまま受け入れようとすると、ある意味で、「死ぬ」ということと直結してしまうような気がする。と思う。そしてそれはものすごく怖い。ノーベンバーズでこういう歌詞もあった。

“いったいいつまで

正気でいられるか

ゲームはいつはじまった?

薄着のままで

悲しみのぜんぶを

カバンに詰めて

息切らしてどこへ

運んでいこう

降ろす場所なんてない

渡す人なんていない

飾る場所なんてない

渡す人なんていない

チャイニーズレストランで

おいしいもの食べたら

すぐに優しくなれて

なんとなく虚しい

悲しみのぜんぶを

カバンに詰めて

息切らしてどこへ

運んでいこう

降ろす場所なんてない

渡す人なんていない

昨日までのぜんぶを

両手に抱えて

息切らしてどこへ

運んでいこう

飾る場所なんてない

渡す人なんていない

花に替えられたら

羽に変えられたら……”

ほぼ全部書いてもうた。しかし死ぬことは怖い。怖いと感じなければ、怖いと書かねば、怖いからこっちから「終わらせる」と意気込まねば……というか人は、怖いものに対して『対策を練る』のが好きなんだろうと思う。人は頭が良いから。だから好き。ということだろう。「終わらせる」というのは恐怖に対する対策としてはGOODだと思った。