20180824演技

人間が現れた。ステージの上に人間が現れその前に幕が上がった、幕が上がる前は明かりが点いた、その前は暗闇だった。人間。急に叫びはじめて驚いた。役者は地声であった。声がでかかった。ライトが点滅した。素晴らしい。と思った。人間がいる。途中感動して涙を流しそうになった。なぜかと言うとあんなに大勢で、ひとつところに固まって、人が、あんなに大勢、なにかを同時に、あんなに、叫ぶところは、ふだん、見れない、そして、あんな大勢で、ひとつところに固まって、あんなにして叫ぶ、なぜなら、マイクがないという物理的制約、叫ばないと聞こえない、または“発音”しないと“意味”にならないという地上の約束、そうか、これが、人間! そう思ったときには遅かった、はっ。気づき、なるほどねえ、と思った、これが人間か。「これは私の物語だ」という台詞が何度も舞台上で繰り返された。人間という〈キャラクター〉は“物語”を必要とすると言えると思うとすれば、涙が出そうになる、葉が葉脈に準ずるようにか、鳥が羽に準ずるようにか、石が時に準ずるようにか、知らん。しかし同時に人間という〈アニマル〉には、物語は必要ない、が、好きに狂い、交わり、殺し、愛し愛され、死に、生み、しかしそれでは人間は世界を形成することができない。人間は観念のおままごとを通じて世界のつなぎ方と壊し方を学ぶと言えるが、すべてダンスであることに変わりはないが、それが何よりも楽しいが、その人間の生まれたままの姿は(逆説的に)というか、ああやってステージの上で、「役者」の名を冠した人間たちによって「演じ」られることでついに、真実のすがたを纏うことになる、のか? なるほど! 演劇はすばらしい、演技はすばらしい映画はすばらしい、“泥酔カラオケ”、それは泥酔してカラオケする、楽しい、私はそこである一人の男の映像を撮った、あれはまさしく、映画だった。それは真実だった。彼は生まれたままの姿を“纏った”、というよりも、アルコールという太陽が彼の〈性格〉や〈環境〉という名のコートをすっかり剥いでしまった。その映像はひどく泥酔している一人の男を収めており、現実という皮膚をすっかり剥がされたことによってはじめて“真実を纏う”ことを可能にした、わけのわからない男の姿であるがその役名は“村岡”というが彼は叫んだ、私は昨日演劇というものをはじめて見て感動した。