20190820ダンス

家族。藤田。過去。何だったのかと思う。時の経過というよりは生成か絶え間ない変化のように思う。混沌。混沌はハシゴ。登ろうとすれば滑り落ち、とどまろうとすれば永遠にどこへも行けない。レディオヘッドにプレゼント・テンスという曲があった私はこれを聴き「たしかに」と思った。

“このダンスは

このダンスは

武器のように

武器のように

自己防衛のための

自己防衛のための

現在への

現在への

現在への抵抗”

「そうか」と思った。舞うしかあるまい。しかも忘我のために。いやしかし人間にはこれしかあるまい。忘我は人のself-defenseの結果であって目的ではない。何といったらいいのかわからない。しかし精神分析学というのはやはり「結局そのとおりかもしれん」と納得させられるぶんには強い、というよりは良い。良い、というよりは高品質に思える。人は「かっこつける態度」と「身体の気持ち良さ」しかない。というようなことを私は先日日記に書き、しかしなぜ人はかっこつけなくてはいけないのか知らない。しかしそれはself-defenseのために必要なことのように思われる。この〈セルフ-ディフェンス〉とはなにかというと単にこの曲のなかに出てくる歌詞をそのまま言っているだけなので何かの用語ではない。自己防衛と訳されるが人は狂わないように色んな手を使っているということなのか知らないが、そのようなことを考えることは私にはどうでもいい。つまりこの曲の良さはそこにあるが聴けばわかる。人間はいちいち「できる自分」を「できる感じ」で「見せ」ないと栄養がいかない。または「できない自分」をさも「悲哀感たっぷり」に「母性本能をくすぐるような無力さ」で「演じ」ないと病気になる。または「できる」や「できない」の「単純な二極化こそが人を苦しめる」と「さも」「啓蒙的に」「諳んじ」たりしてみないとヒマになる。またこうやって「カギカッコ」で「概念ロック」をやる「素ぶり」「ごっこ」をしてみせていかにも自分は関係ないみたいな、そういう感じ、を、やると楽しい。すべてダンス。