20190508強いイメージ

強くイメージするなら。「めしにしましょう」という漫画では料理とは何か、食べ物とは何かという疑問?怒り?が、登場人物の食欲を通してひたすらに考えられ続け、「さあ強く食べたいものをイメージするのだ」と言ってまるでケルンコンサートのピアノソロ?のように即興で名前もわからぬ食べ物を作りはじめ、その一線の先の到達点とはひたすらに美味いもの、脳が壊れるほど美味いと感じるもの、文字もコマも絵もぶっ壊れるほど美味いもの、それだけしか考えておらず、純粋で美しく、アパートの浴槽をまるまる低温調理の鍋にしようと、台所でアンコウを吊るし切りにしようと、ハサミやピンセットでスッポンを解体しようと、どうぶつの食欲・また嗜肉癖というものが、いかに素材の物質そのものにすでに内包されているかということがわかるよう、そのでろでろ感、というかぐちゃぐちゃした内臓や果肉の触感や、あるいは棘や骨のような皮膚に突き刺さる痛さ、など、しかし話は変わって私はなぜここにいるのか、というと、やはりヤりたいことやイキたい場所を、動物のように強くイメージしたからにほかならないのか。

そこまで大仰なものではなく私は単に暇だったのかもしれぬ。しかし思うところは多々あった。私は午前にはつくばエクスプレスに乗って都心から離れていった。私はどんどん離れたかっただけだと思われる。それは繊細な内面の、そこはかとない情緒の振れによるものではなく、喉のいがらっぽさに途端に咳き込むような反射の行動であった。ゆえに肉体的であった。暇だった。私は考えたくなかったと言える。昼には現場から会社に戻って、早々にやるべきことに取りかかれたに違いない。だが飽きた。暇だった。どんなに無理そうなことでもできる。最初はできなくてもそのうちできるようになる。かと言ってそれもしばらくすると飽きた。それは周期のようにやってきてすぐにまた楽しくなるのは目に見えているが、しかし飽きたときは別のことをするのが吉か、もしくは有用と思えた。しかしそこまで考えておらず、暇だった。こうやって書いたところで掘り当てられそうな目ぼしいものもないか、暇だということしかない。終点のつくば駅で降り筑波山口行きのバスに乗った。私の目からいま見えている景色は、木がある、草や民家の畑がある、墓がある、瓦屋根のそこそこ大きい民家が連なっており、電柱や電線やガードレールがあり、竹やぶや林のようなものがあり、右手に水の張った田んぼのずっと向こうに巨大な扁形かつ山頂の尖ったの山がある、筑波山と呼ばれる、かなり近づいてきた。

 

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そして登った。

バス停で降りるとチャリをレンタルし登山口まで坂を登っていきケーブルカーに乗って山頂へ行き、そこからさらに岩場を登って行ったのだった。柵のない平たい斑レイ岩?の上に立ち、足下は遠近感の狂った緑の奈落だった。踏み出せば落ちていくことになる岩場に立って、掴まるものが何もなくて、ただ手を後ろに組んで、風に吹かれてバランスを崩して落ちないようにするのは初めての経験だった。あれほど写真のデジタルデータを褒めそやしていたにも関わらず、いざこういう凄まじい景色を前にすると、写真などはまったく伝わらないではないか、そもそもこの遠近感の途方もなさというものは、人間の両目のレンズと時間感覚・空間感覚を持ってしなくては、ましてや平面の写真などでは、まったく伝わらないではないか。だから映画を見ることと映画の外を見ることは違うようで同じようでいて、やはり結局はまったく違う!それはカメラで撮ることはできない、少なくとも現在ではまだ。このことについては真剣に考え書かなくては。ひとまず下山し、チャリを返却し、バスと電車を乗り継いで帰社する。素晴らしい!素晴らしい日だ!