20190506たくさん本読ま

われわれの神経組織は楽観的な素材から成っているのであって、しかし本来物質とは押し並べてそうではなかろうかという気がするのであって、私もそうやってベーコンと同じように自身の神経組織に忠実にあろうとするのであれば、今日という何もなかった日について何か書くことができるんじゃなかろうか。という気がする。しかし私は、少なくとも今日は自身の神経組織に対して何ら意識的ではなかったのであるからして、さながら水の外から自身の池堀を望むことのできぬ鯉かメダカのような感じなのか、知らんが、何も考えておらず、ひたすら歩き、しかし歩くとはどういう感じなのか、とここで考えるにあたって記しておきたい。何かを文字で書いて、書き言葉で説明するということには何かものすごい意味があるように思われる。「歩く」と書くのと、実際に私たちが歩くのは何か違うのか、同じなのか、なぜ違うのか、なぜ同じなのか、両者はどういう関係にあるのか、という疑問は言語学記号学なのか。知らないことが多すぎる。しかしこれに関しては正直そこまで真剣に疑問に思っているわけではないかもしれないが、私はただ書き言葉で記すことができるその限界と可能性についてはものすごく興味があって、そして言語によってのみ越境できる現実があるという事実にも魅かれ、かっこよく思う。ゆえに今日、今日に限らずとも、私は歩くが、その「歩く」ということがどういうことなのか・・・と大学を卒業してもう2年ほど経つのに、まだその座標で好奇心の始点が止まっているのかと思うと、明らかに日頃の読書量や思考量が足りていない気がする、しかしこの2年間で私の物事はすべて良い方向へ変化したというのは紛れもない事実であって、私はいわゆる頭のなかで考えることに肉体性を獲得した感じだと言える、頭の構えが実践的でプラグマティックな感じ?になった、が、それもまたどうでもいい気がする。

しかし当たり前のことを書くなら、書き言葉とは脳内の思考言語の文字おこしみたいなものであるからして、ケータイのフリック機能でそれを書き起こすのと、キーボードのタッチでそれを書き起こすのと、また紙にペンや鉛筆でそれを書き起こすのと、それぞれほとんどまったく異なる肉体性?というか、異なる時間と運動の性質を担っているので、同じことを書こうとしても、それぞれの異なる手法によって書き起こされた結果としての文章もまた違うものになると思われる。

だからそういう考えにもつながって、たとえば「歩く」と書くにしても、あたりまえだが、「歩くとはなにか」と考えないといけないのであるからして、たとえば知っている道を歩くのと知らない道を歩くのではまったく意識の流れというか様態が違うが、なぜなら「歩く」と書いても、それが知っている道なら、そこがどこで自分がいまどの部分のどこら辺にいてこの道がどこへどう続いていて・・・というようなことを地名を含めてある程度説明ができるはずだから、しかもそれが何十年も同じように歩き続けた道ならば、もっと複雑に入り乱れた記憶の残滓みたいなものにそこかしこの物質に満ち満ちているはずなので、その上を・また中を歩くことは「歩く」というような単純なことにはならないはずだが、そんなことは今更わかりきったことだが、だからたとえば小説で今さらそのテーマを掘り下げたとしたら、どうなるのか、やはりつまらなくなるのか、つまらなくなる気がする。だとしたら何をすれば面白くなるのか、そもそも小説の面白さがどこにあるのかよくわからない。映画やアニメ・音楽ならば楽しさがあるが、小説の楽しさがどこにあるのかちゃんと説明できる人は私の周りに果たしているのか。ちゃんと他人を理解に努めようとさせる程度に熱心で親切な説明ができる人がいるのか、しかし私とて映画やアニメや音楽の楽しさをちゃんと説明しろと言われてできるのか。結局は視覚や聴覚や触覚に対するフェティシズムの性質の度合いによるのか、文字のかたちや言葉のリズムにフェティシズムを感じる人が小説に楽しみをおぼえるのか、わからない、書き言葉に起こされた思考はすべからくキモいではないか。この文字・書き言葉・メッセージ、というものたちが持つキモさに耐えられるか。意味が醸し出すキモさ、またその先を越そうとする無意味がやはり引きずりながら晒してしまうキモさ、ひえええ