20190504新しいもの

【1年前の5月3日に書いたこと】さいたまスーパーアリーナのビバラロック

完全に不思議な体験だった。というより巨大な感動だった。私はただ双子の英雄を見ているだけだった。双子はステージの上だった。私は群集のなかにいた。英雄は姉妹であり…などと言うと誇張しているかまた大げさだと思われるかもしれないがこれは本当のことだった。私は言葉を失うほどの感動があった。双子の姉妹には迷いはなく萎縮もなかった。めちゃくちゃ覇気に満ちていた。あれはただ若いというだけでなく、人間という手と足と頭がある一個の器・肉体に、先天的にか後天的にか、あらかじめ何者かによって注がれる生命力の質量というか、その深淵というものが、彼女らの演奏する曲のつぶてのような重い一音にもあらわれていた、といえよう。選ばれた人間のなかにしかない欲望の大きさ・エネルギーの大きさというものはたしかにある。ある程度食べたらすぐに何も食べられなくなる人と、食べても食べても満たされない人というのは確かにいて、その差異は必ず

〜略

頭いかれとる

 

【それから1年後の5月4日】さいたまスーパーアリーナのビバラロック

注意深く心に留めたことを記しておくのは有用と言える。ネバーヤングビーチ、キングヌー、チャイ、ゲスの極み乙女、テンダー、オーガユーアスホール、サチモス 、アジアンカンフージェネレーション

皆好きに乗ってくれて良い、周りの真似はしなくて良い、知らない曲でも良い、なぜなら音楽はビートがあってメロディがあって、何も知らなくともそれだけで良い、というようなことをアジアンカンフージェネレーションのボーカルは最後に言い、誰も知らぬ新曲を披露して去った。彼は彼の言葉を使ってそのことを言った。私も自分の頭の中で、なるべくセルフで言語の思考をしたいが、そんな本位な自己など存在しないかもしれないが、しかし私は彼と同じように、音楽ってさ良いよな、最高。とMCで感極まったように言いたくないだろう。そもそもなぜライブで喋るのか、長年バンドとして活動し、ライブハウスの店主やフェスの運営者たちと交わっていくなかで、ある種の礼節として曲と曲のあいだで感謝を述べたり客に向かって語りかけたりすることを学んだのだろうか、それともステージの上で過ごす年月が人を演奏以外の余興へと自然と誘ってしまうのだろうか、なぜ演奏をしながらその演奏された音楽について再度、しかも自分自身でしゃべり直してしまうのか、なぜプロもアマチュアもライブでMCをするのか、しない人もいるが、私は人が不要なことを喋っている姿を見たくない、自分もそういう姿をなるべく見せたくない。しかしそれは、どうでもいい。

そうだ・このどうでもよさこそが、フェスというものであり音楽というものなのかもしれない。ノリに乗ること、一丸となること、飯を食うこと、楽しむこと、酒を飲むこと、仲間といること、日差しを浴びること、好きなものについて語り合うこと、恋をすること、知らないものを知ること、お互いに確かめ合い深まっていくこと、そのすべてに意味などなく、その善きどうでもよさによって人は繋がり広まっていくとしたら、しかし同時に、文化と呼べる表現?(表現と呼べる文化?)がわれわれに最も要求するものとは、やはり月並みだが“新しいもの”なのではないかと思うからして、上記の音楽に対する「楽しみ方」「触れ方」また「繋がり方」「生き方」というものすら、生成過渡の未完成の状態にほかならず、だから私はその進化主義ともいえる考えが頭のなかで肥大化して、フェスで楽しむこと・音楽を楽しむことが、まるで旧体制のノイズに感じるよう、なのかもしれない。ゆえに私がライブのMCに感じている不和感?違和感?の正体とは、それが音楽表現(演奏)の過剰物・上澄みのように感じられるからなのではなく、また「不要な物言いは慎んでほしい」と思っているからのではなく、単にそれがステージ上の決まりきった礼節のように感じられるから、その作法にいい加減飽きたからなのかもしれぬ、たとえば私がバンドを組んだときボーカルである妹に「バンド名を名乗ったり曲名を言ったり、そもそもMCをすることはやめてほしい」と言ったときに「それじゃ意味わからないじゃん」と言われたが、しかしキングダムでも嬴政が「全国境を排除する」と中華統一の宿願を初めて宣誓するシーンで、信が「国境がなくなったら、えーと、えーと、わけわかんねえじゃねえか!」と叫んだが、しかし、しかし、まず第一に、MCをしないバンドなんて星の数ほどいるのに妹はそれを知らぬ、そしてその「わけわかんなさ」に対する思考の構えの無さこそが、真に人を辟易させる馬鹿さに他ならない、申し訳ないが。しかし未知のものに対する思考の静謐な構えこそが、新体制の危険なハーモニーを迎え入れるのに役に立つのではないか、だがしかし、しかし、この話に対して私は、自分の中で結論は出ている。おそらくこれを読んだ人も同じことを思っただろうが、けっきょくはフェスにしろ、春秋戦国時代の戦にしろ、経済的にやっていく普段の生活にしろ、恋や性欲にしろ、家庭のやりくりや子育てにしろ、服装やセンスや金うんぬんにしろ、趣味や遊びにしろ、偏った好みや食生活にしろ、表現や実験や研究や勉学にしろ、一番重要なのは、けっきょくはアジカンのボーカルのMCに立ち戻って、「自分のビートやメロディに乗ること」「周りに合わせないこと」「好きにやること」にほかならず、それゆえ人に理解されなくとも、まあいいか。と思わなくては、けっきょくは変なところで心が曲がったり折れたり壊れたりしてしまうことになる。「人に合わせない」それは月並みでも、人生の至上命題といえる。まさしくチャイがそれを「NEOかわいい」という新語で定義したように、「チャイの言うかわいいってさ、ここにいていいってことなんだよな」と、昨日、スターステージでチャイを見たあと放心状態になった村岡が言った。彼の発言のニュアンスが間違っていたら済まない、しかし私には彼がそういう意味のことを言ったように聞こえた。ならばその通りかもしれぬ。チャイに限らず、この場合はチャイだが、「NEOかわいい」とは、上記の命題を立証するなにか本質的なところを突いているかもしれぬ。NEOかわいくあるとは、ある種の共感を求める欲を捨て、ある種の孤独や絶望を一挙に引き受けようとする覚悟でもあるのか、そんな大仰な話なのか、知らぬ。しかしそれは月並みでも、人生の至上命題といえる。オーガユーアスホール。私は一番良かった。感動した。すべてのバンド(テンダー以外)に感動したが、ひとつひとつ細かくは記さないでおく。ネバーヤングビーチは素晴らしかった。チャイは美しく恐ろしい。しかしいつまでも彼女たちに拘っているわけにいくまい、だろうか。絶望感がせめて悔しさになるまで早く時間が経ってほしい。そしてオーガユーアスホールに最も深い感動をおぼえた。電子音無しでもミニマルテクノの演奏は可能なのか。頭で知っていても、ここまで近く目の前で見聞きしたのは生まれて初めての経験だった。何よりMCをしないのが良い。好みの問題だが、喋らない、説明しない、慣習を適用しない、「わけのわからない」ものに好印象をおぼえてしまう、それは、面白おかしく、弾けるように楽しい。ということであた