20190425父と母

私は生まれたとき東京にいた。生まれるまえ母は東京にいた。母は多摩ニュータウンにいた。私は生まれてから母とともに新潟の父の家に移った。多摩ニュータウンには母の母がいた。祖母が多摩に来たときはまだほとんどが山だった。山を切り開き開発を進めていたのは鹿島建設というゼネコンだった。私は加茂山のふもとの幼稚園に行った。加茂山は父や祖父が子どもの頃からあった。千年前から生えている巨大な杉の木があって爺杉という名前だった。婆杉という木もあったが百年以上前に大嵐で折れたとのことだった。その山のふもとの町におり私は3歳だった。その町は何千年か何億年前は海の底だった。なので土の中から貝や葉の化石が出た。加茂川で私は化石を掘った。私の家を出て左へ行き、十字路を前に左へ行き、次の十字路を車に気をつけてまっすぐ行き、難波の家を通り過ぎ、信号を渡ると河川敷へ降りる階段がある。降りる。それから上流へ向かって15分ほど歩いて行くと私の小学校や図書館やスーパーからどんどん離れていく。そこがいまだに知らない隣町という印象なのは私がそこに3歳からいていまだにそのことを覚えているからだと思われる。そして上流へ近づくにつれ、

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この視覚データの正面に望むのが粟ヶ岳であり、その山から一本の川が町を貫流している。川は秋には日本海から鮭が昇ってくる。その鮭が昇るほうへ歩いて行くと水中に岩場が盛り上がっているところがあって水がしぶきながら流れており綺麗に見える。その岩場の近くで貝の化石が取れる。小学生のときそこへ遊びに行った。しかし川は危険だといつも言われていた。蛇が流れて来たのが恐ろしかった覚えがある。私が川へ行くのは私は川が好きだったからだと思われる。山は祖父と弁当を持って頂上を超えて向こうの町へ降りてぐるっと回って戻ってきた気がする。夏祭りは花火が上がるがその打ち上げ地点が山の中に大きく切り開かれた場所があってここで花火を上げるんだと祖父が言った気がする。しかし私はそれ以来どうやってもそこへ行くことができなかった。道は合っていると思ったが一度もたどり着けなかった。なので私は一度しかそこへ行ったことがない。祖父は死んだか。死んだ。私が中学生のときだったか。しかし祖母はまだ父方も母方も生きている。だが死ぬだろう。私はゴールデンウィークは実家へ帰る段取りで物事を進めていたがそれもできなくなった。28,29日、5,6日しか空きが作れなくなった。父は私に川へ入らないことを約束に一人で川へ遊びに行くことを許したが、私が河原へ降りて知らない人たちと釣りをして遊んでいるのを見つけると泣きながら怒った。私はそのとき初めて大人の男が泣くということを知った去勢的体験だった。父も死ぬだろう。母はいつも私のそばにあった。赤ちゃんを抱いている若い父親を見ると私に耳打ちするように「お父さんはあなたをああやって抱いたことはなかった」と言った。父は弱い人間だったが母は生まれながらの母だった。私は母と何度出かけたことか。母の運転する車の助手席に何度座ったことか。それもいずれ終わって死ぬだろう。母は私を育ててくれたのがありがたい。父は私を傷つけなかったことがありがたい。私はひとつも辛い記憶のないことがありがたい。しかしそれらもすべて忘れ去り死ぬかもしれない。完全なる忘却と帰無には浄化作用があるかもしれない。百年の孤独という長い小説はマコンドという町の完全なる消却により幕を閉じる。それは一族の繁栄と滅亡と、その痕跡の時間の一切の消滅を意味する。ああ射精しそうだ。すべて時間は去り消える。そこに一切の痕跡は残らぬ。すべてポルちゃんと同じく死に、消え去る。しかしわれわれは死んでも死んだことにはならないかもしれないという事実がこの世界を正面の裏側からまっすぐに支えている。家にいると私は懐かしくて駄目になる。私はどこにいても父と母の記憶の残るかぎり一人になることができぬ。私はゴールデンウィークが消えた。私は仕事というものよりもずっと大きくて広い場所へすでに出ている。客観的に見れば人生は皆一人で頑張って弱い人から壊れていく。そして、壊れても良い。治しても良いが、他人を殺すのだけはだめかもしれぬ。私は生まれたときは母と父がいたが、生まれるまえは母と父はまったく無関係の男女だったことになる。そして今度は私がそのように誰かと出会う立場になった。私は子どもではなくなった。私は遠いところへ一人で行けるようになった。私は自分で自分のヤりたいことをヤれるようになった。私はある分には孤独になった。私はよくわからないが頭が良くなった。私はより多くの喜びや意味を見つけるようになった。私は強くさびしくなった。だが人から見れば全然ダメに見えるだろう。私から見たら誰も彼も中途半端に見えるから向こうから見ても同じくだろう。子供や大人、男や女は、社会内で生きるには有用な区分概念だが本当はそんなものはなく、かと言ってどのような先験的な文脈も意味もこの世には存在しないのではないか、だがそれがあるとしても、私たちをより良くしないものなら無視されて然るべきものではないか、しかしどうでもいい。ヤりたいこと、本当にヤりたいこととはなんだろう。「酒池肉林」と清水は即答したが、私は自分が望むものは絶対に違うだろう。死ぬことでしょうか、お母さん。いいえ。あなたへ還ることでしょうか。いや。ヤりたいことは目の前にあって夢中になれること以外まったくの論外でありえない。私は誰しもの頭を蝕み阻害するこの邪魔な「考え」というものから逃れたいが、それはヤるを現在にイキ続けることによって脳内のホワイトアウトをなるべく引き伸ばし続けるのは現に可能である。それは誰しもできる。しかし私がこんな人間になるとは昔は誰も思わなかっただろう。私はもっと駄目になる可能性もあったはずなのに高校のときに友達のすすめでキッドAを聴いて大学のときに石川や山川からああいう授業を受けて会社に入って齢66の男からこういう教えを受けた影響でこうなった。それがそもそものはじまりがキッドAだと思うと本当に運が良かった。いや、そもそものはじまりはあの母と父か。たまたま、というかすべて偶然でこうなっているのは凄まじい。私は今現在の人格?というか性格?なのか、内面?そんなものがあるのか、それの大もとはやはりキッドAにあるが、あれをあのときに聴かなかったら今ごろ自殺か発狂かの二択だったか、しかしそんなハートフルなことはどうでもいい。キッドAはその当時、レディオヘッドを聴き続けていた人間からしたら、ものすごい衝撃だったらしい。

しかし私は一切の周辺情報を知らずに、音楽というものをキッドAから入ったおかげですべてが上手くいった。私はキッドAを聴いたときの最初の感想はおそらく、記憶に間違いがなければ「サビがない」だった。歌は必ずサビがあるものだと思っていたがキッドAはサビがなかった。あと歌詞カードが付いていないと思った。そしてボーカルが眼鏡をかけている学者のような男だと勝手に想像していた。

私がキッドAが「わかる」ようになったのはいつからなのかわからない。記憶をはじめから辿っていけば、私はたしかに、嘘偽りなく、キッドAは途中で停止ボタンを押すことはなかった。そもそもアルバム単位で聴くという概念はそのときの私にはなかった。しかし父がくれたCDコンポで聴いていた。イヤホンではなかった。私は高校生で学校が嫌いだった。私は繊細だった。キッドAではじめてピンと来たのは6曲目のオプティミスティックという曲だった。おそらくそれは初めてCDをコンポに入れて再生ボタンを押した第一回目の体験だったが、オプティミスティックのみ、私は良さが理解できた。あとの曲は単なる不思議な音と歌声だった。しかし私は一回目で理解できる世の中の事柄は少ないということそのときわかっていた。なぜかわからないが、ぼのぼのバガボンドハンターハンターを何度も繰り返し読むことでそういうことを学んだのか、もしくはその頃から古い映画をたくさん見ていたのでそこから学んだのか。しかしキッドAはそのときは毎日繰り返し聴くことによってだんだん世の中が開けてきた。私はもちろんネットでたくさんの批評文や感想や考察を読み、歌詞を調べ、ほかのレディオヘッドのアルバムをどんどん聴き、すぐに汚染されていった。しかし最初にキッドAを聴いたときのあのまったくの未知の感覚というものを今いちどすべての物事に照らし合わせて考えてみなくては。

しかしいま現在のこの私というものは必ずあのキッドAから形成されたものであり、そのおかげで私は本当の意味で精神的に暗くなることから回避することができた。しかし私がそもそものそのような物事への向き合い方ができたのは父や母が私を健全に育ててくれたおかげだった。もしも私が3歳か4歳の頃に描いた絵や歌った歌を、両親からもっと過剰に抑制されていたなら私はキッドAを聴いても砂嵐の音のようにしか聴けなかったはずであった。キッドAは感情抑制的で鬱屈としておりしかし怒りや悲しみといった安易で突発的なものが渦巻いているかもしれぬ、しかしそんなことはどうでもいい。私はいまキッドAを聴けば、その音のかっこよさや楽しさしか目に入らぬ。ほかのどんなアルバムをいくつも聴いて、また立ち戻るようにキッドAを聴けばいくつも聴こえなかった音が聴こえるようになる。それはマジでやばい。もしもキッドAを何回も聴いたことのある人がいるのならば、それは、良いことかもしれぬ。しかしこの世にはキッドA以外にもそういった作品や物事が無数にある。しかし私は少なくとも何かひとつきっかけがなくてはそのことに気づかないところだった。そしたら私はいまきっともっと退屈で他人に対して専制的な気むずかしい大人気取りの社会人になっているはず、そういったときにこうであったかもしれない私の姿としていちばんに思いつくのは自身の父親の姿だが、彼には本当にもっとたくさんのことを知ってほしい。部屋や会社の外に広がる世の中はもっとたくさんの興味深い出来事で満ち満ちている。私はそれを母親にも知ってほしい。父や母には、つねに頭が楽しい状態でいてほしい。東浩紀が「人間はつねに頭が楽しい状態でいなくては駄目なんだ」とほとんど泣き出しそうな怒った口調でまくし立てていた対談かインタビューの映像を私は何度も思い出し、どうか父や母にもそうであってほしいとずっと思っている。私は昔から両親が固執する現状維持的で閉鎖的な考えが嫌で会話を何年も放棄していた。母は私に他人に好かれる人間になれと言って前ならえ右ならえで生きろと言ったことがあったが、私はそのときは高校3年生だった。なんで周りのゴミに合わせないといけないんだと言って私はトムヨークの真似をしていつも不満げで怒っていてムスッとしていてコミュニケーションを放棄していて自分にうっとりしていた。しかしいまは父や母に自分をわかってほしいと強く心より感じる。精神的に成長する段階が私は他人より遅かったのかもしれぬ。しかしふつうというものはこの世にはない。私はゴールデンウィークには帰れなくなった。私はいま三重にいる。私の父と母はいま新潟にいる。彼らは遠くない未来に死ぬことになる。私の知る世界というものから認識の水面を超えて空中へ消え去り、いなくなってしまうことになる。祖母たちも同じ、妹もまた同じ、アカネもまた同じ、私もまた同じで、しかしいまの私はより多くの人々の心の中へと入っていきたい。しかしハートフルなシロップの器には興味がないと信じたい。