20190302壁

どうしてもサスペリアがもう一度見たく、ベルリンの分断はやはり面白い物語だった。

しかしもう一度見たいのはやはりラストシーンの儀式と舞踊のシーンであった。新たなマルコスの器となるべく用意された少女のはずだったスージーが、寮母たちの思惑を超え真の母に覚醒する、そういうシーン、であり、意味はわからない、が、何かの覚醒を描くシーンはやっぱり意味や論理を超えて勢いがいちばんだった。「お前は何者だ!」と醜い肉塊と化したマルコスが叫ぶ。「あなたは3人の母の誰に選ばれたの?」とスージーがたしかこういう台詞だった。3人の母とはキリスト以前に発足し1970年代のベルリン当時まで暗躍し続ける魔女たちの舞踏団の開祖たちのことであり「マ、マザーサスペリオルム」としどろもどろ答えるマルコスに対して「いいえ。それは私」画面が暗く赤く染まっていき、胸の肌を開くスージー、奥には心臓の代わりに巨大な女性器がうごめいており、どういうこと?となり、そして彼女の正面の暗闇・地下? 具体的な場所は画面では説明されないが、よくわからないどこかから、あれが召喚される。あれとは真っ黒い悪魔のような存在で、女のようにも男のようにも見える、不自然な大きさの両手に鉤爪のようなものがあり、焼けただれたような黒い身体は裸のようにも鎧をまとっているようにも見える、それはスージーが呼び、おそらく幾千の時を経て現れた嘆きの母・マザーサスペリオルムだと思われる、だがここまで来たらおそらく何でもいい。ただ少女の覚醒と闇の化身の召喚がそれがどんな物語であろうと作中でなされた場合、しかるべき盛り上がりと祝祭感を持ってひとつのクライマックスとなる。この姿を現したマザーサスペリオルムと思わしき化身が、マルコスと彼女を支持した寮母たちを虐殺するシーンがどうしてもかっこいい。かっこいいと書いても、何がどうでどう言いたいのか、まったくわからない。私だってたくさん考えたが、たくさん言葉を探したが、かっこいいと表現するほかない。しかしベルリンの分断は、それとはまた別の主題であり物語でもあった。ベルリンはドイツの首都だったが、第二次世界大戦ナチスが連合国に敗れてからは米英ソの統治下に置かれ、事実上東西に分断されたとのことだった。そのとき東西に分断されたのはベルリンじゃなくてドイツ全体だったかもしれないがまだよく知らなくて申し訳ないが、とにかくそのころはまだベルリンに壁はなかったとのことだった。西ベルリンと東ベルリンのあいだに有刺鉄線が張られ、歴史上の壁の物語がはじまったのが1961.8.13の午前1時30分のことであり、これは東ベルリンとソ連が決行まで秘密裏に行なっていた経済政策だったとのことだった。壁の建設はアメリカとソ連の冷戦の象徴であり結果であったが、そもそもなんで物理的に壁を設けたかというとこれは東から西へのベルリン市民の流出を防ぐ苦しまぎれの経済政策であったらしい、とのことで、この人間の構成する世界というものがいかに政治と経済によって成立しているかということが、すばらしい、すばらしい? おもしろい。おもしろいというか難しい。複雑だった。この世界の構成要素の網目状のネットワークが少しでも肌に近く感じ取れるようになったのは、私は社会人になって会社という組織に属したからだった。ベルリンの壁に関わらず、歴史の物語にはあまりにも多くの人々と状況とそれを構成する実務的で社会的なピースが散らばっており、それがなんとなく繋がりとして感覚的に捉えるには、たとえばギターやピアノやドラムを弾けるようになってはじめて音楽の中で鳴っている物理的な音や音色やコードの粋が理解できるように、特定の社会的組織に属してはじめて見えてくる世界の立体イメージがある。ということを私はこのときはじめて知った。戦争が終わり、ようやく平穏な暮らしを取り戻しはじめた罪のない市民たちを非情にも引き裂くベルリンの壁、というのは間違ってなくとも平面イメージでしかないと思われる。たしかに悲劇はあったが物事はそんなに紙芝居的ではなく、あっちもこっちも入り組んでいて、どこから見聞きしてみようにもいく通りもの語り口があり、壁の建設を決断した一国家もそれに反対した一国家も事態を知らぬまま出し抜かれた一国家も、そのそれぞれに生きた登場人物としての政治家がおり、また野心や理想があろうとそうでなかろうと、彼らの迷いと決断と駆け引きによって引き起こされた現実の戦争と平和があり、また壁によって分断された家族も運良く離別を免れた人々も、怒り悲しみに狂い壁に押し寄せた市民たちを押し返した警察官たちも武装労働者集団たちも軍人たちも、壁を建設した業者や労働者たちも、幾度となく西を目指そうとした東の亡命者たちも、また一見関わりのないであろう物語の外にいる人たちも、皆この出来事に関わっている。というのが、なぜなら市民は、国の定めた通貨を使って物を買い生活を営み、それがどんなレベルであれ生きてこの地上に存在する以上は、すべて起きた世界の出来事の一端を担っている。それは各個人に政治経済として意識されていようとそうでなかろうと、そんなことどうでもいいくらいすばらしい、すばらしい? おもしろい事実にほかならない。市民から見れば悪政を敷く暴漢は火あぶりにしなくては、しかし運営の実務を担う政治家たちから見れば市民は無名の統計的な数字でしかない。私はそんな気がする。ファーストマンという映画は、冷戦時代のアメリカとソ連の宇宙開発競争という状況のもと、しかしあれは「月への到達という人類の偉業をあくまで個人の体験として描いた」映画であって、サスペリアは〈分断されたベルリンで〉という前口上のもと、閉鎖的な舞踏場で暗躍する魔女の集団と混乱をきわめる外の世界とが粘液的に絡まり合うように描かれ、どうやら彼女たちは外の世界に対して不気味かつ不可解なある種のリベンジを目論んでいるように思われる。という構造が心をくすぐるようにかっこいい。とにかく、グリーンブックという映画は、第61回?のアカデミー賞の作品賞を獲得した1962年のアメリカを舞台とした映画であって、昨日見て感動した。がさつで暴力的なイタリア系アメリカ人の、名前は忘れた。男が、上流階級的な黒人ピアニストの南部横断ツアーの運転手兼用心棒として雇われ、そんなふたりはでこぼこコンビ、人種と国境を越えた熱い友情とユーモラスな冒険を描くハートフルな人間ドラマ、というのが平面イメージに聞こえるかもしれないが、そんな感じだった。だがそんな感じではない。世界のあらゆる断絶、ちょうどベルリンの壁があらわしたように、人と人の分断がもたらす世界のあらゆる迷いと悲しみと絶望は、まさにグリーンブックを持ってして浄化を完了とした、ようであった。人は異物であるお互いに触れ、知り、やがて変わり合ってゆく、と、そんな安易な結論ではない。だがそれがすべてだと思わせる。事実そうだった。だから世界はつねに生成の過渡にある。というのが何より私を感動させると思われた。イタリアの血を持ちアメリカの文化に生きる男は「こうである」「こういうときこうする」「こうでなくてはならない」。黒人に生まれその身に不釣り合いな侮辱と栄誉を一身に受ける男は「こうである」「こういうときこうする」「こうでなくてはならない」。私たちだってそういうのがあってそれは当たり前のことだ。しかしそれは幻想のようにもろくゆえに強固な信仰を発揮する、というのがおもしろいが、それよりも幻想も信仰も本当はすべては生成の途中であることが何よりも危険でおもしろくて、「こうである」も「こういうときこうする」も「こうでなくてはならない」も本当は人間には無い、ということを、ほんの少しでも思い出した個々人のあいだに、もしかしたら危険かもしれない何か新しい確信が芽生えたとしたら、そのほんのわずかな枝葉にでも友情っぽい熱を感じ取れるとしたら、それだけのことを描いたのがグリーンブックという映画であった。としたら、やはり良い映画だったのではなかろうか。と、思った。