20190207扉

扉はいつから閉まっていたと言える。もしくは一体いつから開いていたか。扉はそれが「そこにある以上」閉まってるか開いてるかのふたつでしかないと言う人は、扉をあたまの中でイメージで捉えている。あたまのなかで扉をイメージする人は、それは鉄扉か門かいずれにせよ中央から観音式に〈私〉が立っている立面上の視点から、まっすぐに見て、こちら側あるいは向こう側へ開いたり閉まったりしているのをイメージしていると思われる。取っ手があるか手掛けであるかということもあるが、しかし扉は丁番が取り付いていないと開閉の機能を有さず。蝶番とも言うのか。扉が「そこにある以上」と言うのは、人は無意識に扉が既に取り付いた状態をイメージしており、しかも漠然とでしかないので丁番がどこにどう取り付いているのか、はたしてあたまの中で図面を起こせるか、その扉の厚みが描けるか。材質が違えば重みも違うことになるが、あたまのなかで扉をイメージする人は丁番の形状を種類をそれが取り付くしかるべき扉本体の材質を、位置寸法を、厚みを重さを耐久性を小口の仕上がり様を立ち上がらせることが、できるか。しかし私は何度も言うようにインセプションという映画のなかでは、「夢の中では街や建築物・小道具類の構造に至るまで、“設計者”のインスピレーションのみによってつくることができる。」というのがハッとする。人間のあたまのなかのイメージやインスピレーションにおいては、構造物は設立までの物理的な諸条件やプロセスをすっ飛ばして立ち上げることができる。夢においては物理的に不可能な構造の建築物・エッシャーのだまし絵のようなパラドックスも容易に建設することができる。しかしあまりに現実離れした構造を夢に持ち込みすぎると対象の無意識の反映?である夢の登場人物たちや、対象本人にもそれが夢だと気づかれることになるので夢はそれが夢だと気付かれた瞬間に崩れはじめる。

私の扉は巾木一体型のポリ板扉だった。厚みは20mmで収納を考慮していない正面ビス止めのタイプのため丁番は付いておらず。緑とクリームを混ぜたようなメラミン化粧板が貼ってあり小口は同系色のテープで装飾されてあるフラッシュ構造であった。扉は設備が配管を結ぶため外されておりビスがキャビネットの中に無造作に散らばってあった。私はこれを見たとき「扉が外されている」と思った。そしてがらんどうになったキャビネットの中で排水と給水がしかるべき器具で結ばれているのを見てとった。そしてその空間は扉を欲していると言えた。それは文学的な表現ではなく、不思議なことにある種の空間はその空虚さをもってしかるべき形と寸法の扉を欲しているということを私はそのとき理解した。そしてその扉は外されてそこに置いてあった。そしてなにが言いたいか忘れてしまった。これを書き始めたときたしかに書きたいことがあった。しかし次の目的地へ着き会社へ戻りやることをやっているうちに夜になり、そのあとで続きを書き始めたらなにを考えていたか思い出せなくなった。その続きはまた明日つづくことになる。奇跡は途切れなくつづく。奇跡は扉を必要としない。一日と一日、こことあそこ、こっちと向こう、入り口と出口、さっきと今、光と影、有と無、朝と夜、私とあなた、生と死、夢と現実、そういう仕切りを必要としない。奇跡は対を要さない。奇跡はただ続くのみによって続くのであり永遠を冠する。私はあたまの中にある物とあたまの外にある物とで出来ている。ちょうど天と地の相克が(現時点での)人間の思い描く世界そのものであるようにカッチリ当てはまる。しかし遠い未来それも解かれることになるか。物質からも重力からも放たれネットの通路を介して夢を現実に招き入れることになるか。もしくは普通に宇宙へ移るか。