20190128奇跡

1月は奇跡であった。金の羊毛であった。叡智の文字であった。永き眠りの姫を包む純白の衣であり、その純銀の息吹であった。まるで信じられない日々であった。永い日々であった。炎のように燃え落ちる夏の過酷な日々とはまったく違っておった。自分の現場ではもう問題はなにひとつ起きなかった。まるで水面の銀の月のようであった。1月が終わろうとしてあった。私に降りかかったいくつかの災いがあった。それは種を開き芽生え・やがて触手を伸ばし花弁を開こうとしてあった。しかしたぶんどうにでもなると思った。私は夏のころ秋のころ現場というものに怯えていて死にもの狂いであった。しかし怯えようと奮い立とうと問題は起きるときには起きるし起きないときには起きないというのがふつうのことだと私は知ってなにかを思った。「やれることば全部やった。びた一文も負ける気はせん。だけども負けたら、御免。」と啖呵を切って魔物の軍勢を迎え撃つ島津豊久ドリフターズの最新刊であった。あれは本当にそのとおりだと思った。ツイッターを見ていると私は楽しかった。あれはたしかに道具やプログラムじゃなくて一個の社会であり意識の集合体みたいな感じであった。私はツイッターを再開してから世界が変わって見えるようであった。大学のときにツイッターをしているのといまツイッターをしているのとではなぜかまったく場所・意味・景色や色や音がちがうようであった。なぜかものすごく開かれている感覚があった。自分が外へ開かれているのか・外が個々へ開かれているのかおそらくどっちもだった。あらゆるものは広大で測り知れず深くて興味深いと思った。自分と外はぜんぶ同時に進行しておりそれを自分が知っている状況は非常に重要であった。電話もネットも無い時代は私は嫌だった。この先消滅していくあらゆる文化文明と人間の知覚と認識とこのボディというものも、ドリフターズたちが好き勝手気ままに異世界のかたちを変えていったように、何がどうなっても良い・十全だと思った。東京はすばらしかった。仕事は簡単だった。考え方を切り替えたりないまぜにしたり練ったりして強くするのは簡単だった。すべては運であり生死の結果はたまたまであった。平成のガメラ三部作を見た。万引き家族を見た。ミスターガラスを見た。サスペリアを見た。ミスターガラスって何だろうと思ったらなにかの映画の三部作の完結編だった。見た後に知ったので全然わからなかった。こういう表現なのかと思ってものすごく新しい映画だと思ったら違った。万引き家族はすばらしかったがもう公開が終わってしまった。サスペリアはちょうど封切りになって初日に見たが凄かったのでもう一回見るのが楽しみだった。