20181029なつかしさ

wilcoというバンドのwilcoというアルバムは私はamazonで買って、土曜か日曜の午前中に家に届いて、母親がそのとき昼にヤキソバか何かを作ってくれたので、しかし私ははやく聞きたかったのでCDのラジカセみたいなのにそれを入れて流したが、食べながらだと聴きづらいと思って止めた。そのときのことをやはりこのアルバムを聴くと強く思い出すのであり、あのときご飯というものは、あんなに降ってくるように手軽に誰かが作ってくれたものだったか?と思った。そしてそれは季節は秋だったのではないか。とにかく晴れた日が続く季節だったが、夏ではない。まさに今日のような日であり、それは6年前くらいだということになる。wilcoというアルバムを何度聴いたことか。ジャケットの写真をかじりつくように眺めボーカルやギターがどんな服装だったか今でも些細に説明できる。そんなことをしても読むのが退屈になる。青春賛美というものに拍車をかける。なつかしさというものはやばい。それが昨日の夜につながる。自分は国分寺の知らない道にいてあたりがまっくらだった。そこはどこだかわからない道であり家がいくつも立ち並び…と書くとまた文学という出来合いのアクセサリーを着飾ることになるのか。家のひとつひとつの灯りが闇のなかにまっすぐに伸び…私はそのなかを歩いていく…。とここまで説明したらもう書くことはない。書いて説明することはひとつもない。つまりその後のことも何ひとつ書くことはない。その後のこと。つまり清水と会い、小澤と会い、討論が行われた。議題は死。「パーティをしたいがケーキがない。」我々の中心に据えられるとびきりの甘いケーキ。それがここにはない。死というもの。それを見てみたい。食べてみたい。と言う清水のロウソクに火が灯された。灯したのは誰か。彼のその火は今年燃えて落ちる。つまり彼は今年、死ぬ。なつかしいと思う気持ちを恥じるなんて、一番恥ずかしいと小澤は言うだろうか。「死ぬ話はさ、チープにしたいんだよ」清水が言った。私が真面目なことばかり言っていたからだった。「なんでだよ」「だってダセェじゃん」「あのねえ、俺から言わせたらダサいってのが一番ダサいから」と小澤が言った。だからなつかしい。なんてなつかしいんだ。俺はこれを高校生のときに秋のよく晴れた日が続くころに、聴いて聴いて聴きまくっていたぞ。そして服装にかじりついて見ていた。似たような服を探していた。それはかわいい。郷愁というものに飲まれる。「どうしちまったんだ、おまえ。死だよ、死!  誰かの家庭のことなんて忘れちまえよ」。清水に幸せになってほしいと私は言った。本当は少し違って、清水は今ある幸せに気付くべきだ。だが、「もっと、体力を使わずに、言ってみ?  なにも考えずに、ストレートに、ひねりはなしで、思ったことを、そのまま」と言われた。それで私は「幸せになってほしい」「悩まないでほしい」と言った。彼は今年、死ぬ。もしくは私が死ぬ。お互いの命を百円硬貨一枚でベットして、雪山ですべてを打ち捨てる。それが無駄死にでなくてなんだというのか。私は死にたくない。私が死んだら困る人がたくさんいる。「そういうの、いいから!」と清水は言った。彼は今年おそらく本当に死ぬ。よかろう。よくはないが、ギャグではない。本当の本当に突き詰めて考えれば、友人であろうと恋人であろうと家族であろうと突然死ぬのは普通のことで、ましてや自分からそれを打ち捨てようとしたってそれは普通のことで、失敗して死のうと運良く生き残ろうと、普通の二択に過ぎず命はそれゆえ重い。だから死んだって構わない。死んでも死んだことにならないような気がする。私たちは誰も死んだりしないんじゃないかという気がする。ただいなくなり、見えなくなる。だが死は無とは違う。という気がする。とにかく命を本当に大事に思うのなら、それをどうしても知りたいと言う人を止める理由などどこにもない。つまりもっと真剣に考えたほうがいい。悪は死よりも疾く駆ける。今回の場合なにも悪に値することはないが、積極的に死を知りたいと思うんだから威勢良く送り出してやるのが善というもの、か? それとも「行かないでくれ」か? それはおかしな話だ。真剣に生きてる人に向かって失礼だ。だから「じゃあな!」だ。だってそれは必ず我々は死ぬんだからそれが今であろうと10年先であろうと「じゃあな!」だ。そしてなつかしさの一部になる。