2018.8.6

何をして何を考えていてもヨドバシカメラのプラモコーナーに小澤といたときのことが悪夢のようによみがえってくる。それはただの郷愁なのか、知らない。もしくは何かのナルシシズムを私は小澤と共有していたのかもしれない。そのナルシシズムはオタクの必要条件的なあれで、同族間の結束力を高める純粋かつ暗い要素のあるあれだと思う。思い思われふりふられという漫画では、私はかっこいい台詞というものが好きで、シェイクスピアにはじまりボブディラン自伝、キングダム、そして思い思われふりふられという漫画でも、主人公の由奈は7巻の学園祭が終わるシーンで好きな男に告白する決意を固める。あ……勇気がしぼんでいく音がする……とギャグ調で描かれるこの台詞を私は忘れることができない。そして「行こう勇気がなくなりきる前に」と言って立ち上がる彼女は、そのとき確かに普遍的かつ永続的な人類の英雄の姿をしている。そしてなんやかんやあって、というのは恋愛漫画というのは起きるドラマのシークエンスはまったくおもしろいものではない。それは決まりきった恋愛の作法や成り行きを、いかに感動的にみせるかという演出の力にかかっている。ような気がする。そしてなんやかんやあって、告白は成就するが、彼の胸に飛び込むとき、彼女は、「別の世界の人だと思ってた」「だけど」「私たちちゃんと」「同じ世界にいる」

これほど私と小澤を真反対にバリバリバリ!と引き剥がす言葉はない。丁寧になぞってみよう。「別の世界の人間に過ぎない」「だから」「私たちは永遠に」「違う世界にいる」 そしてその言葉がいま、好きな男の胸に飛び込む少女の喜びと、ガンプラコーナーにいる私たちの悪夢とで、綺麗に真ん中から裂け落ちる。男女や恋愛や結婚や出産や仕事やアルコールやタバコや風俗や、そういった人生のはじまりを告げる幸福と不幸の大嵐−テンペスト−のなかで、私にとって小澤とあのヨドバシのプラモコーナーだけが、決して沈まない眩いばかりの悪夢に他ならない。あるいは私たちはすでに嵐に呑み込まれていたのかもしれない。遠く姿はもう見えず、荒れ狂う波の下でもがき苦しんでいたのかもしれない。溺死していたのかもしれない。そう考えると色々なことに合点がいく。恋愛やら結婚やら、一緒に住む家やら金やら、働き口やら身の振り方やら、そうやって嵐の中で船を行きつ戻りつしている者たちに混じって、私たちは、少なくとも小澤は、流れ着いた孤島でミランダに出会えることもなく、溺死したも同然の狂い方を決めた。「なぜならそうした方が楽だからさ」と小澤はあの日何回か言った。これもその結果だと言うのか。いや、結果が出るのはまだずっと先だ。あるいはすぐそこか。しかし楽になるとかなら死ねばいいのにどうしてそうしないのか。自殺とかなら世間で考えられているほど神経質にならなくていいはずだ。死んでも死んだことにはならない。ただ死ぬまでの物理的なプロセスをひとつひとつ踏んでいくことに耐えられるやる気があればの話だが、それは難しい。周りで誰も自殺というものをしないのが考えてみれば不思議な気もする。まだ誰もそれをしていないというだけで、案外すぐそこなのか?清水。