4月28日・29日

 私は北上したあと南下した。だが北がどっちで南がどっちかということは便宜上定められた記号に過ぎない。私は地図で言うところの上の方に行ったあと下の方に行った。でも地図は上から見下ろしているのでそういう視点はありえない。でも人工衛星があるいま見下ろす視点は普通の視点になった。これからはもっと変わる。上下左右の概念や進行方向という概念は人間の科学によって変容もしくは消滅する。私は地上の方角である北へ行った。夜行バスで行った。起きたらもう朝だった。私は眠りとそのあいだを何度も行き来した。目を覚ましたら朝だった。そういう往復の概念も無くなる。往復の概念は別か? しかしいま座席のカーテンの外は明るかった。知らない道をバーッとバスが走っていた。それは私の知らない市街地というものだった。私ははじめてその道を見た。それは私の知らない場所だった。でもそういう場所は無限にあるのでどうでもいい。私は東京の池袋からバスに乗って遠野駅前で降りた。昨晩私は池袋にいた。私はいまは朝の6時半で遠野駅の前で降ろされた。ほかに行くところがなく、遠野駅のあたりは私が想像したのと全然違っていた。どこにも行くところがなく、とても寒く、私は長袖のTシャツ一枚しか来ておらず、いけるかと思ったが駄目だった。私はずっと腕組みをしながらハアハア言いながら歩いて遠野駅の向こうの通りを歩いて行って名前は忘れたがふもとに博物館のある寺の階段を昇って行って、遠野の町を一望したかったが駄目だった。その丘は低すぎた。私はふるえながら誰もいない道をまた戻っていって、駅の待合室に入れることに気付くと急いで入った。それで売店でどぶろくまんじゅうとツナマヨのおにぎりと暖かいコーヒーを買ってベンチに座って食べたが、どぶろくまんじゅうが不味すぎて途中で捨てた。私は「当てのない旅」をしてるわけじゃなく、したいわけでもなく、ふつうに遠野に観光に来たはずだったが着く時間が早すぎてこうなった。だが私は行く当てがないということをずっと考えていた。それは詩情に満ちていて一抹の寂しさがありつつも人生というものを表しているかのように見えてそうではない。行く当てがないというのはただの普通の事実だからその一言ですませてあとは地上に刻まれたどこかの方角へ行くだけでよい。日が昇ってくると暖かくなって私は駅の向こう側へ行って駅の向こう側にはすぐ川があって桜がまだ散らずに咲いており、上のほうはずっと晴れていて青く、草は風に揺れ、私はおおと思ったが、あの気持ちは景色が綺麗だったということじゃなくきっと私の心よりも身体にまつわることだった気がしてならない。なぜなら私はまだ若く足腰が毅然としていてどこへでも行けた。私は遠くの山を見やったがそのとき蓮實重彦が言っていたことを思い出した。「風景の起源は瞳で、そこでは何が見られているかという対象の審美的特質よりも、ただ見ているもののまなざしが遠くまでまっすぐに伸びていくという、その運動そのものに本質がある」たしかにと私は思って見えている山に登ろうとしたがどれだけ行ってもその山のふもとにすら着かず、私は風景の起源というものを思い知った。それはつまり、私がかねてより凄まじく不思議に思っていたことだ。遠くを見やったそのまなざしの距離といったものは、やがて人間の科学によって変容もしくは消滅する。だがいまは例として、私は夜に月を見上げることができる。星も見ることができる。月とか星は言葉だからそうなる(見ることができる・知ることができる)のだが、でもそれは途方もない彼方にある物体のはずで、私が見ているあの月は、かたちは日によってさまざまであれ、同じ一つの物体であり、そこには必ず距離が存在する。にも関わらず、私の瞳はそれを見る。夜に頭上を見上げれば、さえぎるものはあっても雲のみで、地上に立つ私と月とのあいだには、ほとんどの場合雲すら流れ去っているので何もなく、私と月、つまり見られている対象・物体とのあいだには、また途方もない距離がふたたび姿をあらわすが、でも「距離」といったものは、どちらかと言えば、教科書の知識みたいに、知ってはいるけどいまいち実感の湧かないものでしかないから意味ない。だって実際にいま見えているあの山、遠くの山、が私の瞳にあって見えているのに比べたら、距離が何寸だの何メートルだのといったことはただの数字の想像力でしかないし、このまごうことなき私の風景の起源をいかようにも影響せしめはしない。しかしそれは本当か。

 それは遠くに見えてはいるが行くには容易でない大きな山だった。山は一座・二座と数えるが私が行こうとした山の名前はまた忘れてしまった。地図で私はたしかに確認したはずだが、「遠野の町は南北の川の落合にあり。以前は七七十里とて、七つの渓谷おのおの七十里の奥より売買の貨物をあつめ、その市の日は馬千匹、人千人の賑わしさなり。四方の山々のなかに最も秀でたるを早池峯という。北の方附馬牛の奥にあり」この早池峯という山を私は目で見た。それはたしかに遠くに見えていた山々の、手前のあれは附馬牛という山だった。その連なりの向こうに、かすかにぼんやりと霞んで見えた、それよりももっと大きい山で、はじめは気付かなかった。というより大きすぎて遠すぎて見えなかった。その大きな山だけがまだ山頂に雪を残しており白かった。「東の方には六角牛山立てり。石神という山は附馬牛と達曽部とのあいだにありて、その高さ前のふたつよりも劣れり」というのが柳田国男遠野物語に書いてあるが私が登ろうとした山はそのどれにも書いてないと思う。それから私は進路を変更して、来た道を戻った。来た道を戻って、カッパ淵の方へたしか距離で言うところの約5キロメートルだったと思う。一時間半ほど歩いたか、着いた。私はカッパを殺すためにここに来た。そして目的は果たされた。一瞬のできごとだった。私は怒り狂ったカッパの群れから走って逃れ、遠野駅を発車した釜石線に飛び乗り、ジャンプしてきたカッパの群れを撃ち殺した。新花巻まで行った。そこで新幹線に乗り換え仙台へ行った。私はそこからどうするか決めてなかった。ただ仙台という街はいまの私には居心地がわるい場所でしかなかった。なにより人目が多く、追っ手も紛れ込みやすかった。私は迅速な判断でバスに飛び乗った。登米市役所前行きのバスで、そこから先は何も考えていなかった。ただ村岡が泊めてくれたらラッキーだと思っていた。私は登米市役所前で降りた。私は髭が生えていた。私は白い長袖のTシャツを着ていた。私はマップで佐沼のイオンを検索し、そのルート通りに歩いて行った。佐沼。建物が低く空が澄んでいる。というのは私の印象だった。地面が日に焼けていてところどころひび割れている。私は道をまっすぐに行って、右に曲がった。とてもお腹が空いていた。幸楽苑に入ろうと思った矢先、私は財布に金が入ってないことに気づき、佐沼のイオンタウンへ向かった。そのまま金をおろしてフードコートのスルタンでエビのカレーを注文して食べた。そのあとスズノキへ行ったけど村岡がいなかった。何回か行き来してたら村岡がいた。私は店にふらっと入っていった。村岡は床にしゃがんでなにか着物をトランクに仕舞い込んでいる最中で、私の足を見てとって「いらっしゃい……」と言うがはやいか、文字通り息を飲んだようなはっとした声をあげて、私は人が本当に驚く瞬間を久しぶりに見た。一瞬だった。村岡はすぐに手を動かしはじめ、視線を私から外し、「いらっしゃいませ」と言いきった。そこでいま私は彼が働いていたセーブオンを思い出す。「いらっしゃいませ〜」というあの軽い口調の感じ、少し高い声、抜けるような声の出し方、あくまで抑えた声量、というあの彼の店員としてのもろもろの態度が、まざまざと私の脳裏に浮かびあがり、違う。こんなことを言っていてもどうしようもない。彼はもうかつての彼じゃない。違う。彼は彼だ。だが違う。スズノキに入店した私、セーブオンに入店した私、どちらもひっそりとしており、私はただの一般客を装っている。彼もそのゲームに乗る。私はスズノキに入店して、私は髭が生えていて、白い長袖の綿のTシャツを着ており、下はくたくたになったリーバイスで靴は6足目のイタリア海軍のスニーカーでおり、「着物…」と私は村岡に聞こえるようにつぶやいて店をうろうろして、やがて出た。そして色んなことがあったそのことは細かく書いていかないと「何かあった」ということにはならない。少なくとも読んでいるあいだは。だからなるべく細かく書く。

 佐沼のイオンを出た私のケータイに村岡から電話がかかってきて、今どこにいる。と言われた。電話をしながら歩いて行くと、村岡がスーツ姿で駐車場にいる。そして私を見つけて何か叫んだ。何を叫んだのか忘れてしまったが、彼はものすごい何かとてつもなく追いつめられたような形相だった。そして「この笑い方、佐沼でやるのはじめてだ」とぽつりと漏らすように言ったのが私は忘れないだろう。そのあとフードコートへ行って椅子に座ると私をまっすぐに見据え、おまえどうした? みたいなことを言った。それはつまり、なぜ東京から420キロメートルも離れたところになぜ私がいるのかということと私の目つきについてのことで、私はこれまでのいきさつをざっと話した。昨夜からずっと移動しっぱなしであることと行くあてがないこと、カッパの追っ手から逃れていることなど、あと村岡は私の目つきをずっと指摘していた。そんな目で着物屋に来るなと。とにかく俺のアパートの鍵を貸すから休め、と言われて私は村岡のアパートに行ってきったねえと思ったけど横になって目をつむったけど数分で目が覚めて、まだだ、まだやれるんだ、と思った。それから目がギンギンに冴えて村岡のベースを弾いて遊んだり遠野物語を読んでいたら村岡が帰ってきて、おかえりーと言った。そして数時間後、Jが来た。私はお久しぶりです。と言ったがすぐにはじめまして! と言って村岡はやめろ! みたいなことを言って私は先手は取ったと確信したが、Jが自己紹介に変えて自分の病名をカミングアウトしてきたときにやっぱり駄目だと思った。病気だろうとなんだろうと人は対等だが狂気に勝るのは狂気というもので、しょせん私の狂気など軽い寝不足のたたった疲れ程度のものでしかないが彼は「病名」という社会のお墨付きをもらっている。でも社会などというものは人生に比べればあまりに小さいがとにかく私たちは夜を明かした。ひっきりなしにギターを弾いてベースを弾いて歌を歌い、朝になり倒れた。目を覚ますと数時間しか経っていなくて、それから私たちはすぐに準備をして車に乗り込んで海へ向かった。南三陸町の伊里前湾というところだったと思われるがかつて津波が来たところだ。しかし何をどうやって細かく書いたらいいのかわからない。とにかく綺麗じゃない普通の海だった。だが海は海だった。フナムシフジツボや割れた岩に海藻がへばりついていたりカニの死骸が浮いていたり石が綺麗にまるくけずられていたり流木があったりした。それからまた車に乗って、というか私と村岡はビールを飲んでいたのだった。運転はJがしてくれた。それで細くて狭い道を車は行って、空は晴れていて、この空というのが嫌だ。空と書くと必ず文学的な臭いがする。だから私は頭上と書く。私たちのずーっと上のほうのことだ。そこから私たちを見下ろす視点などありえない時代のことだ。いつの時代もその視点は神のものであった。でも神はそこにはいない。いまそこにあるのは人工衛星でこれから先はもっと違う別の物になる。私たちは車を降りた。そういうドアの開閉の概念は無くなる。この扉の厚みの概念は無くなる。車の中から外へ開け放たれて視線がずーーっと海の向こうへ伸びていくその奥行きと遠さの概念は無くなる。頭の上がずーっと晴れていて青くて風のようなものがさーっと吹いていて私たちが感じるもろもろの感情は無くなる。無くなるのではなく変化する。そうやって私たちもいまもろもろを感じているのではなかったか。Jは「失った感情が戻ってきた」と言っていた。私はそれはしょっちゅう我々がやるギャグ=シリアスの公式に則ったものだと思っていた。しかしいま思い返せば、その言葉が強い意味をもって感じる。古代人はどうだったか。車もなければスマホもなければ月が惑星だったり地図の概念もなく海の向こうは無だと確信していた未開人たちはどうだったかという安易な疑問を感じる。そしてその延長線上に私たちがいていずれこのもろもろの概念が消滅したあとの人間たちも同じ未だ見ぬ線の上にいる。もしくはそこまで行くと違う線になるのか。とにかくいまは海だ。あきらかに何か新しい巨大な防波堤?のようなものが沖につくられていて、神経質なまでに整頓されており、粉っぽい白っぽい新しいコンクリートで四角く固められた土台がひとつ、しかもかなりでかい。そしてそこに至る白く清潔な、無機質な階段があり、あれは見れば誰でもそこへ行ってみたくなる。階段を上ってみたくなる。私はいちばん最初に階段を上っていった。海の音が聞こえる。風が強く、バッと吹いてきて防波堤の向こうが見えた。そういうずーーーっと向こうまで続くまなざしの遠さがいずれ消滅する。すでにインターネットでは、URLのリンクの概念でA地点からB地点へジャンプするではないか。そこに距離はなく、このさき現実もそうなるし、現実を認識する私たちの知覚もそうなる。でもいまは海が遠い。とても綺麗で、水が緑で澄んでいて飛び込みたいが防波堤はとても高い。足下は海面まで5、6メートルあるんじゃないか。そういう高さの概念がある。そして落ちるのはこの地上には重力がある。海は月の引力によって引っ張られ、風は太陽が起こしている。その知識も先人がのこしてくれた科学の産物なのだが、だから科学をもたぬ古代人はすべてを文字通り神格化した。すべてのものは具体的に実際的に神だった。私たちはそれらを頭で教えられているだけで、知りもせず見もしない。私たちがやるのはスマホで写真を撮ることだけで、濡れるからといって飛び込みもしない。不思議な入り江があるが岩をつたって降りることは危ないしできない。あの少し深い緑の海へ飛び込めば泳いですぐだ。でも私たちはそれをできない。入り江のなかは暗くて何があるのかここからは見えない。行ってみないと何があるかはわからない。ここにも津波は来ていないとおかしい。あの入り江は津波が来たときどうなったんだろう。そもそもこの丘の上の家は無事だったのか。私たちは防波堤の上にいる。私たちは古代人じゃない。私たちは遠さの概念がある。そして私たちは飛び込まない。私たちは車に乗った。海鮮丼を食べに行った。めちゃくちゃおいしかった。いままで生まれて生きてきたなかで一番うまいエビを食った。