2018.4.9

ここ数日私は仮面ライダーエグゼイドをみていた。なぜかというと私は子どもの頃から仮面ライダーが好きだった。なぜかというとよく考えたら仮面ライダーも英雄だった。仮面ライダー龍騎に出てくる仮面ライダータイガは英雄になりたいと願う未熟な青年が変身するが、さいごは普通に死んだ。彼の求める英雄性はただのテロリズムであり、「たったひとつの犠牲」を妄信したあげく罪のない人を殺しまくった。そして最後には自分の進む道を見失い、トラックに轢かれそうになった見ず知らずの子どもを反射的にかばったことで死んだ。が、これは作劇的な効果としてはノーカウントであり、英雄というテーマのあまりに安易で稚拙な結末だった。実際その話は道ばたに捨てられた新聞記事に小さく彼の名前が英雄としてたたえられているところを映すカットで終わる。つまらなさすぎる。仮面ライダータイガを描くなら、むしろラスボスにする勢いで彼の歪んだ英雄性を肥大化させ、さいごには殉教者のごとく派手に散ってほしい。

 

古来より馬は人間の走行能力を増幅させてきた。それだけでなく、あの馬と合わさった人間の立ち姿はとてつもなく美しい。その姿のひとつは西部劇というジャンルで涙がちょちょぎれるほど思い知ることができる。砂けむりのなか人間と合わさったあの立ち姿。風にたなびくたてがみや灰色の地面を蹴る蹄鉄、そして銃。『決断の3時10分』や『真昼の決闘』では、決して敵うはずのない戦いに身を投じる英雄のすがたが描かれる。私はおぼえている。『決断の3時10分』のラストシーンの台詞を。

「どうして? どうして逃げないの? 私はもうあなたを許した。あなたには死ににいく理由なんてないじゃない」たしかこんな感じだった。男は言う。「女のためじゃない。敵討ちのためでもない」「じゃあどうして?」「責任がある」

彼が言うのはそれだけだ。何の責任か女は問わない。もしかしたら彼自身にもわからない。ましてや彼を討とうとするあの荒くれどもには。

西部劇のリメイクという点では最近ではマッドマックス 怒りのデス・ロードがこれを行っている。砂漠を横断する暴走トレーラーは駅馬車、バイクは馬である。『怒りのデスロード』における時代はすべての文化が終わったあとの世紀末的な世界観というよりは、むしろすべてのはじまり、文化の始原的な激しい予兆をはらんだ未開拓の原野の時代であると言えよう。それは西部開拓時代のアメリカのあの不毛なまでにひろがる広大な大地につながる。『怒りのデスロード』において、われわれの時代を構成する文化・文明・宗教・芸術・政治・科学などの諸要素はあの荒野の凄烈な砂漠の海へ帰失し、代わりにあの世界においてはあまりに荒涼とした風景にふさわしい、いびつに突出したイモータン・ジョーの信仰が発達し、まるで大海原を一隻の航海船が横切るように、鉄馬のごとく狂った重火器を積んだ戦闘車が爆走しているのである。

そのむかし馬上の戦士がふるう武器は剣や弓だったことだろう。そして仮面ライダーの話にもどる。古代戦士クウガはかつて騎馬をあやつるリント族の戦士だった。現代によみがえったクウガの力に選ばれた五代雄介は、大地を駆ける馬にまたがる代わりにバイクに乗り、東京の街を駆ける。やはり馬に合わさった人間の立ち姿が美しいのと同じく、バイクに合わさったヒーローの姿は良い。ダークナイトもだからかっこいい。彼、五代雄介が戦うのは同じく現代によみがえった殺人をゲームとして楽しむ戦闘種族グロンギであるが、物語の後半、考古学者の沢渡桜子はグロンギとリントがかつて等しいひとつの種族だったという真相にたどりつく。

「リントも変わったな」というのは一条刑事が構えた銃の生々しい銃口を見たバラのタトゥーの女が言った言葉だ。古代の人々は争いを好まぬ温厚な種族だった。それがどういった経緯かはわからぬがリントとグロンギというふたつの種族にわかれ、戦士クウガグロンギの殺戮から人々をまもるため戦いつづけた。そして二千年の時を経て現代によみがえったこの対立は、物語のテーマとしてちゃっかり現代社会というものを強調してくる。グロンギのような人間、人間のようなグロンギ武装した警察の集団を見てバラのタトゥーの女は「リントも変わったな」と嘲るように笑うのであった。。

そして「クウガとダグバは、やがて等しくなるだろう」と言ったのはやはりバラのタトゥーの女だ。物語の後半、もはや普通の力では倒せないほどの強さを持つ「ゴ」のグロンギがあらわれはじめ、それに対抗するために力を増そうとする五代は、どんどんグロンギそのものに近づいてしまう。つまりそれはより強く純粋な暴力というものであり、それを最も強く解放できるのは恐れや怒りの感情からだった。最後の敵、ン・ダグバ・ゼバを倒すためには、クウガは完全に闇の力と同一化しなくてはならない。そうしないとまずそもそも勝てない。ダグバと同じ闇の存在になるしか勝てない。

しかし五代はそうはならなかった、というのは物語の当然の流れで、しかし最後の戦いのシーンはどうしてもやはりぜったいうまく作ったとしか言いようがない。そのシーンのまえの話では、30分まるまる、最後の戦いを前に究極の力をつかうと決めた五代がこれまでお世話になった人物に別れを告げてまわるシーンで構成される。雨の音と彼らの話し声が交互に断続的にくりかえされ、最後に五代は数日前にダグバと戦い一度敗れた場所へとむかうが、そこには大勢の犠牲者へ向けられた小さな花束が添えられてある。雨の中バイクにまたがりそれを見つめる五代に台詞はなく、雨の音しかしない。この数日前にあったとされるダグバとクウガの一度目の戦いは、数日前の回想として音も無くフラッシュバックされるばかりで、何の説明もないのが良い。え…負けてたのかよ。と気付くのはたぶん大人だけで、子どもが見てもおそらくまったくわからない。とにかくそのつぎの話がラストバトルで、それはものすごくシンプルで、ただ雪原でふたりは血まみれになって殴り合う。それは拳を使った戦いで、純粋な傷つけ合いにほかならず、たったひとつのこんな簡単なことなのに、めちゃくちゃ感動するのは、なんでだろう。やっぱり画の効果なのか。真っ白な雪原のなか血まみれになりながら殴り合っているふたりは、一方は笑っており、一方は泣いているが、五代が泣いているのは、自分が殴っている相手が、大勢の人々をその暴力で殺した相手だからであって、その相手を殴っている自分が使っているのもまた暴力だからである。そこには言葉で解決できない人と人の悲しい隔たりと性がある……などという、それはつまらない諦めに満ちた安っぽい涙ではなかったはずだ。あのシーンがあんなに感動するのは、五代が相手のために泣いているからだ。自分がいま憎しみも怒りも狂気をもってしても使うことの叶わないこの暴力というもの(だってそれらを使ったらいまのクウガはダグバと等しくなる)を、その力と同じものを使うこの目の前の人殺しに向けながらにして、彼に残された唯一のものとはなにか。ということだと思う。闇の力に落ちずにすんだのは、心の力でした!仲間の力でした!というのもわからなくはないが、このシーンにはもっとなにかちがう、凄みといったものがある。あえて言葉にしようとするなら、答えはまったくわからない、まったくわからない、俺は殴っている、殴っている、殴っている、でも痛い、痛い、痛い、ということにしかならない。そして彼は泣いている。笑いながらそれをやっている憎むべき敵のために泣いている。そういう種類の凄みのシーンだ。

私は本当は仮面ライダーエグゼイドのことが書きたいが、なかなかたどり着かない。私が話したいのは英雄についてのことではなく、たんに話のおもしろさだが、余計な倫理観がまた邪魔をしている。エグゼイドという話はいったいどうやってつくったのか、私はつくった人・高橋悠也という人に会ってみたい。ストーリーの構成や回収というのは見ていてキマると本当に気持ちいい。それを一から作るというのは本当にすごいことだ。

エグゼイドをみていて最初にキマったと思ったのはやっぱりクウガとダグバのような二者関係が露骨にあらわされているシーンで、やっぱり私はそういうのが好きだ。

バグスターウイルスが引き起こすゲーム病を治療できるのはゲーマドライバーによって変身した「仮面ライダー」だけである、という設定がまずある。なんでゲームと医療をミックス、、? という当然湧いてくる疑問はすぐに気にならなくなる。なんでかというと、「命はコンテニューできない」というこの台詞だけでじゅうぶんだと思う。だからそういうテーマでつくられていて、実際主人公のひとりが序盤で文字通り死ぬことによって、大枠の物語は動き出す。ライダーたちの胸にはHPのゲージがあって、それがゼロになると「ゲームオーバー!」といって消滅するから死んだーー!!となる。そういうのが見ていておもしろいが、主人公はおもに五人で、①正義感あふれる善良な研修医 ②気高いエリートの天才外科医 ③過去を背負ったアウトローの無免許医 ④おちゃらけているが切れ者の監察医 ⑤すべての黒幕でありトリックスターでもあるゲームマスター の五人からなるが、監察医は仮面ライダーとバグスターウイルスのある秘密に途中で気付いてしまったため、ゲームマスターの手によって始末され、とつぜん物語から退場する。

物語が進むと、なぜ主人公の研修医だけがゲーマドライバーの適合手術を受けずに仮面ライダーに変身できたのか、バグスターウイルスとは何なのかということが明かされるが、つまりけっきょく研修医が16年前にかかった病こそが最初のバグスターウイルスにほかならず、彼から発症した一体のウイルスこそが主人公たちがずっと戦っていた謎の敵キャラであったことが発覚する。そいつが終始研修医に対して異常な執着心を燃やしていたのも彼が自分の宿主であり倒すべきプレイヤーだったからにほかならないというわけである。「おれはおまえだ」と告げる敵キャラに研修医は苦悩する。「ゲームに夢中だった子どものころのおまえが望んだ遊び相手がこの俺だ。俺はおまえとゲームをして遊ぶために生まれてきたんだ」かくしてエグゼイドのLv.50形態が二人プレイの形式を取っていたことがここで回収される。人々の命を巻き込む死のゲームをはじめた敵キャラを止めるためエグゼイドに変身した研修医は、その2Pキャラである自分自身のバグスターウイルスと戦うことになる。

でもこれは中盤で、終盤ではLV.100の力を使うためには、この自身の病とでも呼ぶべき敵キャラを屈服させ、彼らはひとつにならねばならない。そこに至るまでに描かれたドラマは感動こそしないものの、うまいというか、すごい。研修医は一貫してドクターとして彼と戦い向き合っている。敵キャラ自身のほうでも精神的なドラマが展開される。だからふたりがひとつになったときはちゃんとバシっと話がキマる。そういうふうに作れるのがすごい。

まだあったがもう少し頭のなかで発酵させてから書くべきだろう。たぶん私がここ数日でもっとも興味をひかれているのはキャラクターのつくりかたというもので、キングダムでもそうだが、エグゼイドは本当に参考になるとおもった。五人全員を自立させ同時に動かししかもそれは物語の進行と連動していなくてはならない。しかもキャラが立つには刻印とも言うべき強烈なフックがなくてはならない。トリックスターというのは本当に物語づくりにおいてはなくてはならない存在で、もし私が俳優であのゲームマスターの役をやれたら本当にうれしかっただろう。いちばん狂っていて、目立っていて、だけどみんなに見放されていて、おもしろくて、彼が出てくるだけでなにかが起こる。