20201204

昨日?青葉市子の新譜について適当なことを書いたが結局いい加減な印象論でしかなかったということを改めて何回か聴き通して思った。

またその他にもいい加減なことを述べ彼女の作品を勝手にジャンル分けしてしまったが、結局自分が何か言うことなどないのかもしれぬ。

少なくともこの新譜に関しては言葉で説明するのが(なぜか個人的に)非常に難しく、たとえば「民謡のポストクラシカル化」や「民族音楽とミニマルミュージックの接合」などといったインテリ方言を使って説明したところで、何というか「邪推だ」と思わせるようなずるい空気感がある気がする。そもそもそういった言い方がこのアルバムに相応わしいのかどうか自信ないし、そもそも頭良さそうな言い方がキモい。

というかこのように「ずるい空気感」などと言って思い上がった拗ね方をしている時点で明らかにこの新譜に対する距離感を測りかねている。

いや、なぜこんなにも聴いた音楽に対して言語化することにこだわっているかというと単純に自分は音楽を聴くのが好きだしどこが凄かったのか説明したい。

そしてできれば誰かと語り合いたいが、たとえば誰かがこれを読んだとしても「じゃあ青葉市子の新譜を聴いてみよう」と思って面倒臭さを超えて本当に聴く人はいないだろう。しかしそれはそれでいいというか共感は求めても得られるものではないし得られたところで永遠にこちらの満足感に変換されない。

しかしそれよりもこの新譜に対してうまく説明できないのが不思議というか自分のボキャブラリーの無さがもどかしい。結局いつもと同じくひたすら生活音の一部となるまで聴き続けることによって初めて聴こえてくる音というものに気付くまで時間をかけて聴き続けていくしかない。

いや明らかに言えるのはこのアルバムは長く聴くものであることは間違いなかろうし、そういった時間の中で自分も何かしら手を動かし続けることによってたぶん何かが進展すると思う。

20201127

『になに』という人は音楽的な…緊張感と高揚感がある、喋り方に。それもすべて長崎弁の呪術的なリズムのせいなのかもしれない。正直失礼だが喋っている内容はまったく頭に入って来なくてひたすら彼女の声とか表情とかうわっついたテンションが可愛い。声と滑舌と喋り方が絶妙な噛み合い方をしているのかもしれない。

また君島大空やジム・オルークに感化されて改めてレッドツェッペリンを聴くと昔はよくわからなかった部分が非常に深く浸透して理解していくように感じる。自分は楽器の質感や合奏の一体感を音像として捉えることが多少は可能になったのかもしれない。

もしくは音圧といったものを多少は感知できるようになったのかもしれない。それもすべてキリンジの新譜のおかげだったが、キリンジの新譜を聴かなければ今でもゴーグルなしで水中の文字を読もうとするくらい何となくで音楽を聴き続けていたことだろう。キリンジの新譜『cherish』は本当に凄まじい強度と精度を持った作品だと思う。

ものすごく精巧で緻密な作りで質感も極限まで仕立てられており、とにかく高級で極上なアルバムだというふうに感じる。

堀込高樹は最近のインタビューでこのように述べている。

当時、僕の子供が海外のヒップホップやダンスミュージックをすごく聴いていて。そういう音楽が家の中でいつも流れていると、単純に影響されるんですよね(笑)。自分が今まで作ってきた、中域にいろんな情報が詰め込まれてる音楽の成り立ちとは全然違うじゃないですか。高音と低音がバーンと伸びていて、真ん中に歌がポンとあってスッキリしている。家でそういう音像に慣らされたわけではないですけど、「なんかこっちのほうがカッコいいかも」という気持ちになってきて、結果的になんとなく似たような曲になってるかもしれないですね。

浦上想起さんは面白いと思いましたね。「なんでそんな複雑なことできるの?」と思ったりもします(笑)。長谷川白紙さんや君島大空さんも、すごくアカデミックなことを若さゆえの勢いで表現していて。そういうのを聴くと「こんなのできないわ」と思っちゃいますね。でも下の世代にも負けてられないので、もう少しがんばりますよ(笑)。

 

しかしアリアナグランデは新譜ではすでに、何というかだんだんハイファイじゃなくなり始めている。それはおそらく彼女なりの何かしらの思考と選択なのだろうが、個人的にはアリアナグランデの新譜のように2021年の音のモードはどんどん低圧的で無造作なものへ移行していくのではないかといった期待がある。

うまく説明できないが、それはまた私が『になに』に対して感じる“ほころび”感とアリアナグランデの新譜のテキトー感(適当という意味じゃなくて軽さの意味)は文化のモードという側面のどこかで繋がっている気がする。になには「ただ喋っている」し、アリアナグランデは「ただ曲を作り続けている」という感じがする。

になに…彼女は“ほころび”だ…「ほころび」とは一体…「ほころび」という曲はMr.Childrenにもあった…私がになにに愛情を感じるからといって…それは「好き」だということにはならない。「好きなタイプの女性」というわけでもない。“ほころび”なのだこれは…。そしてフワちゃんは私にとって“光”だ……。

20201126

YouTubeで『フワちゃんFLIX』を見ていると一瞬の永遠を感じる。彼女は“光”なのだろう。YouTubeで『古着屋シミー』を見ていると一瞬の儚さと気だるさを感じる。彼は“道楽”なのだろう。YouTubeで『ふわふわこっちゃんねる』を見ていると“家”と“墓”が〈愛〉という点線によって折り重ねられる一瞬の悲しさを感じる。彼女たちは“願い”なのだろう。

またYouTubeで『あみにーちゃんねる』を見ていると単純に太陽光の視線と同化する。彼女は“生活”であり私はそれを視る“眼”なのだろう。そして、そして、『になに』を見ていると一瞬のほころびというか、何というか、何というか、ほころび、ほころびを感じる。彼女は“ほころび”なのだろう。彼女がそこで何かを喋り続けているのをただ視ていることは至上の喜び、と言っても差し支えないというか、彼女が毎回わけのわからない内容をもつれるようなせわしない喋り方で喋って喋って毎回何とか完走し切っているのを見ているかのよう、で私は“眼”から“応援”になりやがて“情愛”になる。

「画面は欲望のスクリーンであり現実よりもずっと現実的だ」というようなことは古今東西のあらゆる学匠が述べておる命題だと思うが、まさにその通りだと思う。画面はきわめて強い欲望を刺激するのであり、スクリーン越しに感じる愛情は現実の隣人に対する愛情よりもずっとリアルで認識不可能なものに近い、のかどうかわからない。しかし“眼”は欲望のゲートである。

そして昨夜は村岡の家へ寄り、ジム・オルークがいつしかインタビューの中で「日本酒が一番神経をストップするのに役立つ。色んなアルコールを試したが、日本酒ほどスローに神経や思考を止めてくれる薬を私は知らない」というようなことを言っていたように、私はゆっくりと神経を止めるために日本酒を買っていったら、彼は飲み過ぎて、具合が悪くなった。彼は金がないせいなのかわからないが、電話越しに姉に謝っていた。受話器からぼんやりと彼の姉の声が聞こえ、それはなるべくハキハキした話し方で子供に教え諭すような、優しいような悲しいような静かに怒ったような話し方であり、彼は電話が切れると私の方をゆっくり振り向き、モンキー・D・ルフィの真似をして「にししし!」と言ったかもしれない。いや、モンキー・D・ルフィの真似をしたのはもう少し後だったかもしれない。あまり覚えていないが、それから私は彼に向かって「姉貴がしっかりしているから、お前は自分からわざとというか、駄目な方向に向かう傾向があるんじゃないか、それともそんなことはないのか」というような適当なことを言ったら、彼は、

「ああ、そうだあな。ちくしょう、姉ちゃんさえいなけりゃなあ」

というようなことを言った。しかし俺だってそんな風に彼の人生を遊びでからかうように書くほどしっかりとした人間ではないが、そもそもしっかりとした人間などという概念はまったく何の意味もないし役にも立たない。我々はある種の感傷性を共有しており、ロマンチックな部分を共有しているらしい。私は珍しく色々と喋っており、彼はことあるごとに私に向かって「ニヤニヤすんじゃねえ!俺は真面目に聞いてるんだぞ!」と言ったが、我々が何を話していたかというと“恋バナ”をしていた。

それはたしか彼が「“恋バナ”をするんだよ」と言い始めたのか、私たちはいつの間にかある種の感傷性を共有しながら淡々と“恋”の話を交わしており、私は喋っているうちにだんだんと色んなことを思い出してきた。私は高校のとき確かに“初恋”的な感じになっていた女子がいたではないか。しかしあれは何だったのだろう。そもそも「好き」になるとは一体…。だがそんな深い話は一切出ず、ただ私が彼女の容姿や振る舞いを話すたびに彼は「ああああ‼︎」というようなことを叫んでいた気がする。いや叫んでいなかったかもしれない。正直細かいところは覚えていない。ただ彼がどこかのタイミングで、モンキー・D・ルフィの真似をして、「にししし!」と嘘笑いをしていたのだけは覚えている。

そして最終的にはYouTubeで『になに』を見ながら彼女の喋り方を真似して「可愛いっさね」と言っていた。

20201125

君島大空の新譜が素晴らしいと感じるがうまく言語化できない。というか言語化などという言葉が一体どうか。もっと子供のような無知で無力で狂った文体であるべきではないか。

音楽を言葉で厳密に説明するのは難しい。かと言って文学的で抽象的な表現を用いたところで音色そのものからは遠ざかるが、ほかに言い表す方法がない。かと言って反射的な印象で語るともっと遠ざかるが、もしかしたらそう思わせること自体がこの作品の凄みなのかもしれない。

まず音色が美しいことは確実だが「音色が美しい」とは何のことを言っているのだろう…と思うがそんなことを言い始めたらすべてがカオス…ではないか……確実に言えそうなことだけを抽出して言い表せば…ボーカロイド文化の変則的な作曲デザインを継承しつつもあらゆるギターロックのテキスタイルを日本歌謡の装いにぶち込んだかのような…感じ…というか一体どう言ったらいいのだろうか…。

音色の美しさはまず音圧の低さというかぼやけ感にあるのかもしれぬ。非常に空間的な広がりのある曖昧で温かい音像をしておりこれは米津玄師やキリンジの新譜に見られる高圧的で野心的で現代っぽい感じとは微妙にズレていくような音像だ。と思う。しかし改めて聴くとそうでもなかった。

おそろしい数の雑音や環境音のようなものが重ねられている上、ボーカロイドっぽいクレイジーパターン的な変拍子や変則的なリズムがぶち込まれているが、情報過多で面倒くさい感じはまったくせず、むしろフリージャズ方面の解放的なクレイジー感に繋がっているように思える。

こういった側面は長谷川白紙や崎山蒼志や諭吉佳作/menなどの同年代の盟友たちの作風にも繋がるスタイルだと思う。

また君島大空の声音の良さも楽曲の素晴らしさに絶大な影響を与えており、これもまた幾重にも重ねられた彼の楽器としての声の断片が美しい彩りを加えている、というか声が美しい。男のようにも女のようにも聴こえる性差超越的な歌声だと感じる。

20201124

11月7日が終わり8日になり、8日が終わり9日になり、9日が終わり10日になり、24日になった。たくさんのことがあったが14日と15日はテントの中で寝た。

テントは清水が持ってきてくれた。村岡が薪を燃やした。

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薪は知らない子供達がくれた。テントの中は恐ろしく寒く、私はブルブル震えていた。村岡は暗闇の中で倒れていた。私と清水が揺り起こすと彼はブルブル震えはじめた。

私たちは肉を焼いて急いで食べていた。とにかく急いでいた。テントの中は寒かった。

我々は知らない子供達と暗闇の中で遊んでいた。彼らはボーイスカウトの子供達だった。村岡は暗闇の中で叫びながら子供達と走り回っていた。清水は優しい大人の殻に閉じこもっていた。私は暗闇のライ麦畑に立ち尽くす無力なひばりであった。しかし我々は腹を抱えて笑っていた。これは特別な経験であったため、ちゃんと書こうとするとものすごく長くなるだろう。

それ以外にもおそろしく沢山のことがあったのだがメモをしておかなかったため忘れた。

20201107

YouTube3時のヒロインがバラエティ番組で喋っている動画を見ていたら3時間か4時間が経過していた。自分はバラエティ番組が好きなのかもしれない。TVerというアプリでも毎週見逃したテレビ番組を見ていて「千鳥の相席食堂」で島田珠代が登場した回が凄まじく面白かった。しかしそれよりも破壊的だったのは「女子メンタル」だった。彼女たちは狂った極限状態で忘我のダンスを踊り続けていた。まるでサスペリアという映画のラストシーンのようだった。“器”に過ぎなかったはずの少女スージーが幾千年の時を超えて“嘆きの母”マザー・サスペリオルムを召喚し、マルコスを支持した寮母たちを皆殺しにするあのシーンに重なるのは、峯岸みなみその人だった。