20190914ニコ・ロビン的アクティング・アウトの実践

ニコ・ロビン的アクティング・アウトを実践に移すべく我々は江ノ島へと南下した。土曜日の昼であり概ね快晴だった。私は午前は“業務”に注力した。12時半に新宿駅を出発し一時間ほどで藤沢駅に到着した。我々は江ノ島電鉄へ乗り換えた。極度の空腹のため海が見える前に下車した。それから我々は観光地化された通りを歩いて行った。私は江ノ島駅の通りは初めてだった。小澤は「生しらす」を食べるべきだと主張した。私はそうだと言った。しかし私は「生しらす」を食べたことがあった。我々はやや古い海鮮食堂に入って行った。私が「おまかせ丼」を注文すると小澤は「生しらす膳」を注文した。そして私が「マンボウの唐揚げ」を注文すると小澤は「マンボウの腸の西京焼き」を注文しマンボウが被った。「マンボウの唐揚げ」を私は食べた。脂身が多くコリコリとしている食感だった。「マンボウの腸の西京焼き」を私は食べた。貝の身のように厚くコリコリとしている食感だった。私はマンボウを食べるのは生まれて初めてだった。

それから「おまかせ丼」を食べた。私は銀紙に乗ったマカロニサラダのようなものを食べた。それだけでなく丼に刺身が敷き詰められてある見た目だった。鯛・マグロ・イクラ・コリコリした魚・エンガワに似た味の魚、海苔、海苔の下にかつお節、薄く切ったにんじん、ゴーヤ、ネギ、白ごま、大量のシャリシャリしたワサビ、最初に銀紙に乗った甘い味噌のようなものを食べた。それからその味噌を白身魚の切り身に乗せて食べてみたような気がする。味ははっきりと覚えていると言えると思う。口のなかに多様な味と食感を感じるのは麻薬のような多幸感だと思った。「おいしい」は<イグ>であることは今さらな話だが、新しいものを口で感じるごとに我々は何度も何度もそう感じると思われる。夢中になると同時に色々なことを考えており、村岡が「食欲」というものに対して取っていた態度や思考方法をいま私はトレースして自分のものに生成しなおそうとしていたような感じだったと思う。「この味は何か」「この食感は凄い」「もっと美味しくなるにはどこをどうすればいいか」「この味はこの味噌と食べた方が美味しいのではないか」「この切り身はこのかぶら漬けと食べた方がもっと高く翔べるのではないか」「ゴマとはなんなのか」「ゴーヤを生で食べようと思うことは普段自分の脳内では思わないからこのように外部刺激的に“生”の“ゴーヤ”が現れてくれたことによって」というようなことを考えており、同時に口の中や喉を通る凄まじい情報量と麻薬的多幸感に支配されており、完全に観念形態の<ダンス>の舞踏会から脱落していたと思う。振り付けは<イギっぱなし>になっており、空になった脳内はホワイトアウトしていたと言えると思う。だがこれもすべて言っているだけだが、食べている間は確実に違った。食べている間は確実に幸せだった。

それから私たちはさらに南へ歩き江ノ島大橋を渡った。それから堤防に上がり海へ出た。私たちはそこをワンピースの現場と名付けた。船乗りの老人が完全に道化の姿だった。それから私たちは丘を登り、小さな山のようなものを超え、まだ見ぬ最南端の江ノ島へと出た。それからまた海へ出ると、人の多さに引き返していった。それから海の見下ろせる丘の茶屋に入ると私はサイダーを飲み小澤はかき氷を食べた。それから桟橋のような場所から日が沈む海を見下ろしていたと言える。起きたことをそのまま書こうと試みるが、私たちは身を乗り出して海を眺めまったくの間無言だった。そして私か小澤のどちらかが口を開いた。「人間の素晴らしいところは“未来”という概念を構築しこれから先のことを計画できるところだ」これは小澤が言った。「しかし今は先のことは一切考えておらず昔のことも一切考えていないのではないか」これは私が言った。しかしすべてありきたりな頭でっかちの会話だと思った。「全部どうでもいい」とたしか私が言ったように感じるが、しかしそれも含め全部どうでもいいと思われる。本気で全部どうでもいいというように思われた。海のなんと綺麗なことか。という、あわやハートフルな話になるところだった。しかし私はすでに完全にそうなっていた。「眼球は素晴らしい高解像度だ」と思った。日が沈むところの水面がグネグネ動いておりそのたびに光るというような素晴らしい映像だと思った。水の動きというものは素晴らしいと思った。それが岩にあたり白い飛沫になる、というよくある話だったと思われる。

f:id:afuafuakanechan:20190915151357j:image
f:id:afuafuakanechan:20190915151354j:image