20190316業務報告①

またひとつ問題なく事を終えた。会社というものはただそこにあるようなもので学校に似ていると思われる。なぜなら私はそのふたつしか属する公的な組織を知らぬ。家族はまた違う。しかし考え方は同じだと思われた。学校のなかで何が起きようと会社のなかで何が起きようと、また家族のなかで何が起きようと、私たちの人生の根本のところには関係ないような気がしてならない。また国家のなかで同じ通貨や言語を使い身を寄せ合っては血の繋がりのようなものを感じ取り合うわれわれ、でも本当はそれ自体は私たちの人生の根本のところには関係ないような気がする。しかし、とは言え、一人であり、一個ということに、私はたしかに強く執着しているだけのようにも思われる。なぜかわからぬ。それは自意識過剰やナルシシズムへの暗い通路とも言えるが私はまだそこへは繋がっていないと思われる。とにかく私の外で何が起ころうと私の中には根本的に何も関係がないような気がしてならない。そもそも内外というものにそこまでこだわるのはやはり執着以外の何物でもないと思われる。人には本当は内も外もない。だから内面にこだわらない人はいくつ齢を重ねてもすぐ笑ったり泣いたり怒ったりするのかもしれぬ。人と話すことにいちいち内面から言葉を持ってくる必要がないというのは心の窓が開けっぱな、いや、内面に窓や扉をイメージする時点で間違っている。というか内面はふつう空間でイメージされるようだが本当はそんな場所はない。だから確固たる内外のイメージを確保するために私は身体にこだわっているのだもしれぬ。私の身体はここにしか無いただ一つのもので、死ぬまで私は永遠に一個でしかなく、それが何だと言うのか。寂しいと言うのか。好きに言えばよい。しかし何も言えまい。寂しいなど、どうやって思うのか。私は自分がただここに存在しようと思うと、難しいようだ。以前は出来たのだが。今は「意味」というものをこの人生に絶え間なく投薬し続けなくてはバラバラになる。なぜならただ存在しようにも、そこには自分というものが一個しかないゆえ、鏡を使わずに自分の目を見ろと言われているような気がする。しかしただ存在することをやめ、またそれを受け入れることをやめ、ただ存在の画板を意味の塗料で汚すのみ、ということか、それも色の出るものならばなんでも塗りたくろうとするくせに使える色が血しか無いような感じと言える。人と深く交わりたい。それも一人の人と。しかし心を深く通わせたところで到底満足できるとは思えぬ。

ということを私は14時半頃、書いた。それから三鷹駅で降りた。それからタクシーに乗った。それからハードオフで降りた。それから店の中の小澤と会った。それからギターを見た。それから店を出た。それからバスに乗った。それから吉祥寺駅へ行った。それから家電屋で外付けハードディスクを買った。それからたい焼き屋に並んだ。それからたい焼きを食べながら街を歩いた。あんこが美味しすぎた。皮は卵の味がする。そして小麦の焼けた甘い味がする。府中の競馬場で食べたクロワッサンたい焼きよりも美味かった。それから歩いて行った。それからお好み焼き屋に入った。それからもんじゃを焼いた。それからもんじゃを食べた。それからベーコンを焼いた。それからベーコンを食べた。それからビールを飲んだ。それからお好み焼きを焼いた。それからお好み焼きを食べた。それからビールを飲んだ。それから話をした。それから話は続き、やがて別れた。それから電車に乗った。それから電車を降りることになる。やがて家に帰ることになる。やがてシャワーを浴びることになる。やがて布団に入ることになる。やがて電気を消して目を閉じることになる。目を閉じたままふいに眠りに落ちることになる。そして5時に起きることになる。そして家を出ることになる。そして電車に乗ることになる。そして小川駅で降りることになる。それから歩き始めて現場へ向かうことになる。それから取り付けに立ち会いおそらく昼には終えることになる。昼には現場を離れることになる。それから家に帰ることになる。そしてシャワーを浴びることになる。そして着替え、家を出て、夕方には清水に会うことになる。そのあいだ、ずっと本を読んで、何を書くか考える。それが何かの意味になるかもしれぬ。