20190314探るための話

書いて探るほかない。何を探るのかわからない。しかしやらねば。やらなくてはならないことがたくさんある気がする。孤独感は激しいが本当は一人ではない。しかしそれを知っているのと理解できるのとは違う。物理的な抱擁を求めているに過ぎないがそれが得られたとしても満たされるとは思えない。書いて探るほかあるまい。しかし書くは喋るのと等しい。話相手とはそれが通り過ぎるイメージだが本当は違う。話相手がいるというのは物理のすばらしさであると言えるかもしれない。だからそれは物理的な抱擁とも繋がる。誰かという異物がいるのはすばらしい。しかしそれを喜ぶ自己がまたそれを阻害するとも言えるかもしれない。自己について書くとどんどん話すことから遠ざかるので良くない。話すことで探らねば。話すとしても何をどこから始めるのか。今日あったことから始めるのか。今日は会社にいた。その前は家にいた。床で目覚めた。その前はスタジオにいた。その前は会社にいた。そのときは昨日だった。ちょうど一対の扉をイメージする人のように、その扉が観音式であるならばその人が立っているその地点から向こう側に、あるいはこちら側にそれが開かれ閉じられることを言うように、私はいま私という時点から見て昨日とかさっきとかいまとか、これからとか言うわけであった。そういうのはあたりまえだが本当はもっと考えなくてはならない。地点や時点は私にとって視点のことだから目のカメラということになる。そしてそれは映画になる。さっき。さっきは私はスパイダーバースを見た。まるで二時間ぶっ通しのグラフィックアートの激流だった。マンガというより欧米で言うところのコミックだった。しかしコミックは静止画でも映画は動く絵だった。動く絵はアニメになる。しかしアニメと言うにはあれはあまりに三次元的すぎる。つまりCGはそれだけすごいということか。アクアマンのCGも驚異的だった。CGは絵や記号や言語と同じくひとつの現実を作ってしまうがそもそもそれが「見る」ということだと思われる。しかしけっきょくその見られるCGの映像を作っているのが人間であるということが凄まじい。一体どれだけの血肉を注ぎアクアマンやスパイダーバースのような映画を作ったのか、それを作っている人間たちがいるということが凄まじい。だから世の中が広大であるということさえ思い出せれば私はまだまだやれる。だが少々身体が疲れているようだった。何かをしなくてはならないと思って何もしていない時間が怖くなっている。会社にいると周りの人が目に入って12時になると昼休みを取りはじめるのが、考えてみれば昼休みとか土日とか人生には無いはずだが、つまり私が言いたいのは社会という独特の領域のことなのか。国や学校や会社や私たちはどれにも属しているわけではないのに、事実は属しているのだが、しかし私は入社したわけではないのに、事実は入社しているのだが、それでも私が私であることで私と呼ぶ存在で私がある以上私には…とか言ってありがちな。しかし12時になったからといって私たちは会社員のように休む意味も理由もなく、土日も休む意味も理由もなく、まさか私は昼夜会社の仕事ばかりしているのではない、事実今月のほとんどは会社の仕事に時間を割いているが、施工の段取りと映画と打合せと読書と会議と音楽と請求と執筆を分けて考える意味がわからない。私はおそらく会社を辞めたときに直面する現実にただ怯えているだけと思われる。つまり昼休みや土日というものが会社に属している以上表面的にでも担保されているものが、それを抜けたことによってついに南京錠の外された猛獣の檻に対面するがごとく、そのときをただびびっているだけに過ぎない。しかし同時に楽しみにしているのも事実だがそれは信じてもらえないかもしれない。私自身が信じられないでいるのが事実だから当然かもしれない。だがいまは本当に楽しくて幸せであることも事実だが、それを思い出すには一苦労かかる。途切れ途切れでもそれを思い出し続けるには何かしら自分でも創造し続けるほかない。それは私のまわりにいる友人と呼ばれる人々なら皆知っている。だから私はそのために探るため、彼らに話そうとしていると思われる。ならばやはり空港にいたところから話し始めるか。私は羽田空港にいて職人と落ち合った。私は彼とはほとんど顔見知り程度で話したこともない人だがスケジュールの都合上その人しか私との渡航でタッグを組める人がいなかった、というこれはただ起きた出来事を話しているだけに過ぎない。彼は40か50でピアスをしていて髭を生やしているが声が高い。見た目はそういうことだった。背は私より少し高いか足が長い。人当たりが良いがお喋りというより誰かといるのに慣れているだけに見えた。私があまり喋らなければ彼もあまり喋らないが私たちは荷物を預けてゲートを通過しているあいだ何となく話していた。それから飛行機を待つあいだ喫煙室にいたり待合室で座ったりするあいだ何となく話していた。翌日の施工を控えこれから向こうの島のホテルへ前入りするための飛行機を待つ、そういう風景が我々だった。問題さえ起きなければ半日で終わる施工だが何がどうなるかはそのときにならなくてはまったくわからない、そしてわからないことを考えてもしょうがない、そういう気持ちだった。彼みたいに職人でいるとどういう気持ちでいるのかわからない。少なくとも問題が起きても彼の責任にならない以上私よりも頭の中で解除する鍵の数が少なかったのは事実であると思われた。しかし彼は「とにかく仕事が終わらないとね。それからの過ごし方はそれから考えればいいよ」と言ったので私は少々安心した。だがこれは仕事の話ではない。それから飛行機に乗ると離陸のために機体が動き出した。ジェットのあたりで火の点く音がしてぐっと急加速するとだんだんと地面にいる感覚が遠くなりふっと地上から浮上した。すばらしい感覚だと思った。空を飛ぶ乗り物はすばらしい。それから私たちの身体は雲の上にあるということがすばらしい。雲の下は暗く曇っていても雲の上は青いということが信じられない。そして本当に雲が綿のようだった。個体に見えてもあれは気体なのだと思った。それから一時間ほどで東京の離島に着地した。空港を出るとレンタカーの送迎車に乗って店舗で用意された私たちの車に乗り込んだ。「よーしまずは」「釣りだ!」と言って私たちは冗談を言った。それからまずはホテルの場所を確認すると、ホテルと言っても家だった。民宿のようなコテージだった。それから現場の保育園の場所を確かめ、あたりをぐるぐる車を走らせると夜も近かったので宿へ帰った。明日の午前にすべてが決まるということになる。いくら大丈夫だと思ってもわからない。わからないことは考えても意味がない。それから私たちはロビーで落ち合うと夕食のために離れの食堂へ雨の暗闇のなか歩いて行った。食堂に着くとテーブルに座って向かい合った。彼は私の分もビールを注文した。すべて経費になるので出費を惜しむ理由がなかった。料理がすぐにでてくるとお婆ちゃんみたいなのが料理の説明をしてくれた。外では雨と風が強かった。夜で真っ暗だった。林間学校を思わせるコテージで天井が高かった。今朝獲れたばかりのトビウオが美味いと思った。トビウオは刺身も骨を揚げたものも身のフライも姿揚げのようなものも食べた。こんなに美味いものは食べたことがないと私は言った。私たちは島の焼酎を飲みまくった。彼は既婚者で子供がいてその子供にもまた子供がいるとのことだった。その子供たちの写真を見せてもらった。私は家族かと言って遠い目をした。彼は私に彼女はいないのかと言った。私はいたらこんなところにはいないと言った。しかしここにいられて良かったと私は言った。彼は笑いここにいたのが君で良かったと言った。そうは言ってないがそういうことを言った。私たちはかなり酔っていて食堂を出るとそれぞれの部屋の前で笑って別れた。私は残念ながら一人で便器で吐いた。二度と酒は飲むまいと思い苦しみながら眠りにつき翌朝何事もなかったかのように彼と下のロビーで落ち合った。それから現場へ行くと取り付けを行い昼前には問題なく終わった。よし今度こそ。島を楽しもう。と私たちは言った。しかし現場を離れると島人の所長から電話がかかってきた。「取り付ける場所が違うんだな」と彼は言った。しかし私たちは彼の墨出しした位置に間違いなく完璧に取り付けたのだった。「これだと引き戸が当たっちまった入んねえんだ」と彼は言った。私は怒ったが怒る振りをするというのは齢66の上司から学んだやり方だった。だがこれは仕事の話ではない。「取り外しに戻ってきてくれねえか」と言われ私は無理だと答えた。それから何度か電話のやりとりがあって私は話が違うそっちの責任だと言い続けて彼はわかったからもう行っていいと言った。それから私たちは車を走らせて遠く離れて行った。遠く見える山の頂上火山口の近くの展望台に登ると山の斜面から向こうの太平洋と名も知らぬ離れ島までずっと見渡せた。遮るものがひとつもなく頭上は青いのに凄まじい風の勢いで小粒の雨のようなものが身体中に当たったのがすばらしかった。これが遠くまで行って知らない風景を見ることかと私は思った。それは知らないことを知ることで見たことのないものを見ることでそれはすばらしいことだった。私たちはまた車に乗ると山の斜面の長い下り道を走って行った。「うわ!」と言って彼が急ブレーキをかけたのが、ハンドルを握り車を走らせる人がただ乗っているだけの私と違っていかに色んなものが目の道の先に見えているか、という話だった。「やべえ」と彼が言う先のまっすぐ一本道の向こうに黒い点のようなものがあって、私は目を凝らすとそれはツノがあった。角があって四本の足で道路の真ん中に立ちこちらを見ていてそれはまだ小さい黒いシルエットだった。突っ込んでくるなよと彼は祈るように小さく呟いていて「牛?」と私は言った。野生の牛? しかし火山の中腹で野生の牛などいるのか、それがどこから来たのかまったくわからなかった。真っ黒い大きな雄牛だった。じっと立ったままこっちを見ていたがやがて脇に退くと岩をぴょんと飛び越え私たちの車の横を静かに通り過ぎて行った。彼はほっとしたようにゆっくり車を走らせ、何で牛が、と言って私は振り返るとそれはもういなかった。あれ、どこにいった。と私は言った。あれが何だったのか、島の何かの存在、ただの動物の牛だったのか、それとも、ということはあるまいが、私はもっと想像をふくらませ話あいたかったが、さすがにそれは彼とするには変すぎる会話だと思ってやめてしまった。ただの牛であることはおそらく間違いないが、想像はふくらませることに意味がある。そして想像は夢と同じく現実そのものでもあるからあれが何だったのかわかるまい。我々は同じ夢を見たか、それともふつうにただの牛かだ。しかし火山に野生の牛がいるのか。その目のカメラは写真のデータで伝えられる。

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