20190303ギターの欲しさ、楽しさ

きのうは良い日だった。外は雨だった。外は雨というのは何かが違う気がする。しかし水が降っていたと言える。頭上から等しく降っていた。雨や雲や海や空気中の気体のなかにも水が満ちているという事実がたまらない。そして寒かった。万象はその繋がりを持って一つと数えられる。かもしれない。気温の低さ。風の強さ。中野にいた。島忠で6×60ステントラスビス全ネジ2番ビットを探していた。無かった。 それは昼だった。昼には家を出て近所の中華で肉野菜定食を食べた。急いでいた。豚肉と野菜をたくさんの油で炒めると美味くなる。美味いとは考えることではなく感じることだからそれがすべてだった。美味いというのは美味すぎる。急いで食べると中野の島忠へ行った。6×60ステントラスビス全ネジ2番ビットは置いてなかった。店を出ると歩いて行った。日曜日だと思いながら歩いた。そのときは13時半だった。時計の数字がそう断ずるそういうルールになっておる。高円寺へ移動すると15時には清水が私の目の前に現れた。また清水か。この文章。また清水か。これを思ったのは誰か。そのときの私か。これを書く私か。それともこれを読む私か。いずれにせよ私という存在は流動している。また生成の話で申し訳ないが細胞は生成している。つまり昨日の私と今日の私に「私」という一貫性を与えている意識とか感覚は何なんだろう。それはどこにあるんだろう。と考えるが、知らないというか最近はどうでもいい。いずれにせよまた清水。清水は病気しても死ななかった。私も生きてる。その生成と流動のどこかに川のように貫流している記憶があるとしたら、その行きつく瀬のひとつで「また清水か」だが、時計で言えば一週間ほど前の、100年を一日で過ごしたような日のことだった。なぜ遊ぶのか。遊びと言えるのか。しかし我々は、少なくとも彼は、遊ぼうとしているわけではなさそうだった。高円寺駅で15時だった。意図的に意味のないことをする。それがその日の目的だと彼は言った。めずらしく私の方が疲れていた。私が何度も早期の解散へと話を誘導するのに、彼が勘付いてあわてて止めるというやり取りが何度かくり返された。私は目の奥が重たくなっていて眼球に致命的なしおれを感じた。これから何をするかカフェで話し合おうと彼は言った。なぜカフェ。一週間ほど前の日も、一日に4,5件はカフェやレストランで休んだ。でもそれは彼の弱った身体が休息を要していたからだった。でもその日の清水は元気だった。朝の5時まで村岡と小澤とゲームで通信しながら話したあと昼に起きて納豆ごはんを食べたと言った。彼の身体は回復に向かっており、私のテーブルの向こうだった。私たちはコーヒーだった。それから彼は私に藤田のことをどう思うか聞いてきた。彼は興味が無いは無しだと釘を刺したが私は興味がないなどとは思わないが、今では遠く会津にいて話す機会がなくなってしまった藤田に対して今あれこれ思うことはできないと答えた。ただ彼との日々は楽しかったと答えた。それは実際嘘だが、嘘ではない。かと言って本当ではないが本当だ。本当に楽しかった。これが一個の結晶のようなギャグだとわかる人は強い。強い人はみな優しく楽しい。何がどうなろうと馬鹿馬鹿しい嘘で本当のことを言ってしまえばきっと笑える。私は思い出せば遊びたくなる。しかし思い出すことはふだんはあまりない。それから私たちは6×60ステントラスビス全ネジ2番ビットを探しにホームセンターへ出かけたが無かった。私たちは高円寺にいて雨が降ってた。私たちは異国めいた古い怪しげな商店街を歩いて行った。その通りにはジャズマスター専門店の小さい楽器屋があり私の妹がここでテスコのビザールギターを買ったのが去年の夏だった。私たちは店に入るとあとから女の子が外からコーヒーを持って入ってきた。彼女は店番だった。試奏していいと私は言われたので60年製のジャズマスターを指差してその人がアンプに繋いでくれた。ジャズマスター持つと意外と軽かった。何ということだ。私は、生まれて初めて、ジャズマスターを弾く、ということだった。弾いたが、よくわからない。弾きやすく、意外と軽く、思っていたよりもボディが薄いと思った。私は店番の人と話すのに清水は店内をうろうろしていた。ジャズマスターは私はこの「目」で見ると、心をうっとり愛撫されるような抗いがたい魅力的な感じがする。前のめりになっているような疾走感のある形をしている、まるで豹かコヨーテの走る姿を切り取ったように美しい感じがするが、同時にそれは空中に静止しているような美しさでもあり、静寂の奥に青い火があるようなイメージが感じ取れる。しかしそれは目と繋がって頭の中で起こるイメージであり、実際にジャズマスターを持つのは私の身体、つまり私がジャズマスターを使っていれば、私の見た目と相成って、ひとつのジャンルの箱に詰められて出荷されてしまう気がするのは考えすぎなのか。一つの形を有したギターを一個の身体の前で構えるということにはとてつもなく意味がある。それがどんな形であるにせよ、たとえばもしもジャズマスターを身体の前で構えるのならそれはそれ相応の意味を背負うことになる。本当は世の中のことにはすべて意味なんてないが、けっきょく私が気にしているのは他人の目というもので、たとえば私はジャズマスターを使うことで、文系の、青少年的な、そういう内面の、かつかき鳴らされるエモーションの、十代の反抗と決心を感じさせるような、そういうスタンスに思われるのが屈辱的でならない。だからジャズマスターを使いたくない。ギターは安ければ安いほど良いと捉えられるべきだ。つまりギターは無意味なものとして徹底的に物語性を削いだ道具として扱われるべきだ。しかし私は本気でそうは思っていない。そもそもギターに対してなんらロマンチックな感傷は抱いていない。あれは「目」で見るとうっとりするほどかっこいい、そういう物質愛好の極致の、金で買うかもしくは誰かから貰うそれだけのもので、飾るよりは弾くと楽しい。とにかく私はそのようにして楽器屋へ行くたびにギターが欲しくてたまらなくなる。我々は店番に別れを告げると店を出た。「いまの女の子ぜったいお前のタイプだろ」と清水が開口一番に言うのに耳を塞ぎたいような感じに自分はなった。タイプだから何なのか、清水は私を悶絶させようとしている。彼が女の話をするのに私はギターの話ばかりした。そしてそれが本当にギターの話になった。「やるよ。やるから教えてくれよ」となった。清水がそれを言ったのだった。我々はラーメンを食うと電車に乗って私のアパートへ行って焼酎を飲んで彼はあぐらでギターを構え、私はギターを教えることになった。一万円の黒いテレキャスだがテスコのビザールより百倍弾きやすいので私は好きだった。彼がダンデライオンの名前を口に出したのでそれを教えることになった。バンプオブチキンだった。スコアブックに高い難易度と書かれていたが大丈夫だろうと思ってひとつずつやると二時間で彼はイントロのコード三つ運指とストロークまで出来るようになった。「もう二時間かよ!」と彼が言うのに感動するような気持ちだった。目の前で人が出来なかった何かを出来るようになるその瞬間を私は見た。私は仮眠を取ると嘘をついて布団で眠った。起きると朝だった。朝になると家を出るのに、私は彼にギターを貸した。それが今朝のことだからほんの数時間前だが、ものすごく前のことのような気がする。思い出すとは言っても昨日のことだが、疲れていたおかげでよく眠ったからか、それともギターづくしの楽しい日だったからか、私はこの上ないリフレッシュとなった。