20181001③誰か

結婚できない男のいちばんの特異点はやっぱり「金田」の存在にあるのだろか。日常のなかで「ああいう存在」はふつうにいるが、それはたしかにいるはずだが、現実における私たちの認識ではあまりに自然すぎて、よく目を凝らしたり意識して意識しなければ、そういう存在がいること自体に気づかないどころか、ふつうは物語と呼ばれる装置のなかには、そういった存在はほとんど登場しない。それが登場するのはもっぱら純文学というジャンルにおいてではなかろうか。つまり「金田」とは、結婚できない男というドラマの物語において、別段誰とも関わらないし、登場人物たちのストーリーのどれとも関わらないのに、なぜかいつも、つねにそこに・どこかにいる存在で、毎話決まって彼は阿部寛の視界の片隅に登場し、なぜか無視できない。それどころか阿部寛は毎回彼のブログをチェックし、「おい、金田がまた更新してるぞ」と部下に教えるが、こんなのは物語とまったく関係ない。なのに金田はそこに・どこかに必ずいなくてはならない、物語の一端を担っている存在で、それが最終回である感動的な姿を見せるのが、結婚できない男というドラマのすべてをあらわしている。あれが「感動的な姿」でなくてなんだというのか。「金田」とは頻繁にブログを更新する金持ちでうさんくさいハンサムのインチキ建築家で、ただそれも阿部寛が皮肉交じりに彼をそう称しているだけで、金田はただ毎回姿だけを見せるものだから、そもそも彼が何者なのか、ふだんなにをしているのか、本当に金持ちなのか、本当に建築家なのか、あのブログの写真はただの合成なのではないのか、彼が毎回連れて歩いている色んな若い女の子はその後どうなったのか、などということは、阿部寛はおろか、金田の存在は本質的にはつねにカメラの外にあるので、それを見ている我々も知らないし、最後までわからない。しかしそういう人は、現にいる。現実の、我々のそばにいる。たとえば街中でいつも見かける無視できない種類の人間というのは、誰しもいる。この人生のなかで別段そいつに関わることもなく、ただそいつに対する余計な想像と、ひとさじの憎しみと嫉妬を持って、いつも通り過ぎ、やがて忘れ去る種類の人間は、誰しもいる。「金田」はまさに阿部寛にとってのそれで、だからこそ、決して本編に関わらないのに、なぜか毎回登場して、彼の視界の片隅で女を連れ、なんとなく互いに顔見知りにはなるが話すこともせず、そして阿部寛の世界を構築するなかで、なくてはならない空気の一部のようになる。それはこの世界の一端を担っている。いてもいなくても変わらない無視できないその誰かこそが、この日常という世界の一端を担っている。それがこのドラマの真髄ともいえる。金田の登場の仕方は、物語が進むに連れどんどん複雑かつ高位の表現になっていき、阿部寛が歩いていると、嫌味なスポーツカーが脇を走り去り、振り返る阿部寛、「金田…?」そしてさらに物語がすすむと、どこかからエンジン音、足元から見上げるカメラがビル群に囲われた中心でキョロキョロとする阿部寛のまわりをぐるぐるまわり、バッと振り返る阿部寛、ブンと走り去るスポーツカー、「金田!」  どのシーンも、ただそれだけ、それっきり、何も起こらない、ただスポーツカーが走り去るだけ、なんの意味もない、だがこれは思考実験だ。なぜそんなシーンを入れた?  逆から考えてみれば、容易にわかるはずだ。だってそれが日常だから、それが世界だから、それが人生だからで、それがすべてだからだ。そう言いたいのでなければ、なぜあんなシーンを毎回入れた?  エンジン音だけではっとする阿部寛、都会の街並み、どこかから、奴だ、振り返る、そこだ 「金田!」時間にして数秒のシーン、ブンと走り去るスポーツカー、おわり。それっきり。何も起こらない。何このシーン? ギャグとしては最高の部類に属するが、本当にこれが笑えるシーンだと気づくには、この人生というものを目を凝らしてよく見てみないとわからないのではないか。という気がするが、いかにこのドラマがおもしろいかということは考えれば考えるほど楽しい。つまりこれはほとんど純文学に属する。