フロイトが発見しラカンが拓いたとでも言えるか知らない精神分析学という知の荒野の上では「父」と「母」は個人の精神の根幹をなす重要なテーマであるからして、宮崎駿富野由悠季庵野秀明や全部アニメだが、彼らの作品はおろかふつうおもしろいと言われている作品にはすべてそのテーマが通底していると言っても過言ではないのか知らないが、しかし古代で考えられていたふつう人間というものは通過儀礼をくぐり抜けたのち「父」と「母」を超え、あるいはそれらに執着する自分自身を屈服させることによって、真に公的な存在・今で言えば「大人」という存在・あるいは当時の言葉で言えば「英雄」もしくはその存在に名を連ねる可能性を保持した者となれるということだ。だからこの世界は本当に不思議だと思わないか。古代人の思考や彼らが物語る神話というものの構造は、どうして最後には自分自身を屈服させる構造になっているのか。これは本当にそういう構造になっているらしい。時間も空間も大きく隔たった世界中の森の奥で、あるいは川の流れる側で、あるいは水平線を望む海岸で、あるいは砂漠の岩陰で、とでも言えようか、印刷技術もネット回線も道路も車もなく、たった一個の口を有した身体でそれを物語るほかなかった何千年も前から、示し合わせたように世界中のあらゆる地域でまったく同じ構造の神話というものが語られ始めた。なんで?  なんでかって、それは人間にはなにか共通の、精神の底を流れるとでもいうべきなにか共通の、なにか、なにか共通の、でもなにかわからないが、なにか共通の、なにかがあったからであると思われる。フロイトが発見したのはその暗い氷山の一角でありそれは「無意識」と名付けられる。それがあまりにしっくりとくるのは、とくに説明の必要もなく、人間のなかには目に見えず、触れることもできず、決して思い描けず、知ることも聞くことも叶わない領域があるということをとくに説明の必要もなく我々が受け入れることができるのは、それがたとえばナルトで言うところのチャクラやハンターハンターの念やブリーチの霊圧やスターウォーズのフォースやフロイトで言うところのエスや私が意味を変換したところで使うヴィルトゥなど、まるで同じ一つの目に見えない力を描いているかのように感じるのは、「それ」が現に実在しているからなのではないか、というのは私が修道士めいた直観あるいは迷信に、囚われているからなのか。

だが私は不思議に感じると同時に疑うことを知らぬ。「それ」というのはある・ないの実在のレベルじゃなくて実在を信じるという病的な信心のレベルにある。マキャベリはフォルトゥナ〈運命〉を主体の外部に存在する歴史の客体的条件であるとしたがしかし彼は運命を「女神」と称した。それは関係ないか。とにかく女神に選ばれたものに運命が与えられる。しかし私はフォルトゥナは主体のなかに閃くものであるという中二病的信心に身を委ねている。つまりそこに運命が「ある」と知覚するのは、実際にはそれは無いにも関わらず、という話である。それでも「ある」と知覚するのは、主体のある種の神経系の麻痺とも言えるヴィルトゥ〈力量〉の発起に関わってくるのではないか。つまりヴィルトゥとフォルトゥナの単純な内外の条件のマッチングが君主の条件なのではなく、君主の条件は、病的な思い違いにも似た「それ」が「ある」という確信に他ならないのではないか。本当はそれはあるはずもない。もっといえばあるもないもない。というかわからない。だけど「ある」というのは、偶然にもキングダムの最新刊で、全滅か勝利かの二択に賭け趙国へと打って出た秦軍のなかの若い芽、独立遊軍という特殊な地位を与えられた飛信隊・玉鳳隊・楽華隊の若き五千人将たちは、それぞれの窮地のなかでまったく同じ景色を見る。敵が迫るなか、彼らは戦場のど真ん中で跨る騎馬の手綱を引きもせず、武器を握った手を下ろしたまま遠くを見つめていて、厳密にはその眼はそこに「ある」ものはなにも見えていない。万の軍勢が迫り、自軍の全滅と死を目の前にした瞬間、彼らの眼はそこにあるものはなに一つ見えてはいない。その瞬間を「大将軍の見る景色」と蒙恬は言った。それは全滅という現実のここにはあって無いものだと言える。それを見る彼らの眼は焦点が開かれていることから遠くを見ていることは確かだが、それは物理的な距離の話ではなく、むしろ時間のレベルでは未来を見ているように見える。彼らは皆その瞬間には呼吸をしているように見えず、冷静でいるというよりは狂気的な静寂のなかにおり、味方の退却を促す叫びも聞こえない。彼らの眼は万の軍勢を好機と知覚する。死の向こうに運命の女神の手招きが見えている。それが病的な思い違いでなくてなんだというのか。「巻き返すぞ」と王賁が小さくつぶやくかっこいいシーンだが、本当は私は「母」について書こうとしていた日記だったが話がどんどん離れていってしまった。しかしこれが何より象徴的とも言えまいか。さよなら母さんという一言で締めくくることもできるが、それよりは決めの王手をかける起死回生の一手を望むべきだと言えまいか。