2018.8.8

夢と現実は同じ通路で繋がっているということはすぐに理解できる。結局はどっちからそれを見ているかという知覚と認識の問題に過ぎない。そもそもそれはコインの表と裏に等しいので、ふたつのあいだには通路どころか違いはない、夢と現実は同じ部屋であるということになる。今見ているものが何なのか誰にも説明できない。でも夢と現実の区別はつく。区別がつかないのは清水しかいない。しかし夢も現実も、同じこの重力というものがあらゆる生物にもたらした、無意識という名の領域の産物に他ならない。何かを見るということは、常に、その心の奥底の、見えもせず触れられもしない不思議な領域を通して見ているということになる。だから本当は夢と現実が区別できるということ自体が不思議なことだ。私は眠っているあいだは新潟の実家にいる。ほとんど毎夜私は家に帰る。そこには家族と呼ばれる人たちがいる。私は夢と呼ばれる時間ではいつも腹が減っている。目の前に食べ物があるのに食べられない、または食べ物を選んでいる、または食べているところで目が醒めるというか、布団にいる。朝空腹のあまり目が醒めることも多々ある。くわえてすさまじいほど綺麗な景色というものを私はよく見る。ベランダに猫がいるときに猫の夢を必ず見ていたが、必ずかどうかは寝ているからわからない。しかし夢は現実と同じくらいおもしろい。だからなんでこういうことを言うかというと私は今どこにいるのか不思議でならない。しかし書いていてどうでもよくなってきた。やめる。

 

カリフォルニアスターズという曲があるが、1950年の後半のときだったかボブディランはたしか10代のときにニューヨークにやって来たのであるが、そのときは真夜中だったと記憶している。仲間の車にギターケースを乗せて数人でやって来たんだったか。しかし別のインタビューではサーカスの一団に混じってやって来たとも言っている。しかし本物の英雄をこれ以上神格化しても意味がない。彼は夜中の薄汚い酒場で演奏をやり始めたと言っていた。カフェホワッ?という名前の酒場で、これは誤植ではない。裏手のキッチンにまわれば気の狂ったコックがいて豆の缶を温めるのに鍋を貸してくれたりたっぷりの脂肪のハンバーガーを食わしてくれたりと非常にお世話になったと書いてあった。食べ物のシーンは私はよく覚えている。それでボブディランはまだ無名のぽっちゃりした坊やだった。彼はウディガスリーという英雄を自身の目標としていた。しかしボブディランがニューヨークに来たときウディガスリーはすでに精神を病み病棟に隔離されていたのだったか、しかしボブディランは身の程知らずというか変わり者というか、丘の上の離れの病棟まで彼に会いに通ったらしい。おそらく彼は自身が英雄と仰ぎみる男の姿を自分の目で確かめておきたかったのだと思う。彼は変わり果てたウディガスリーと対面した。「見ていられなかった」と彼は自伝で綴っており、私は笑ってしまった。何がどう変わり果てていたのかまったくわからないのが怖い。しかしボブディランはなぜかその病棟に通い続けた。そして彼が最後にウディガスリーに会ったときだったか、ウディは彼にこう言った。「これまで書き溜めた詩が私の自宅の地下室にある。君にあげる。好きに使ってくれていい」

というような感じだった。ボブディランはすぐには行かなかった。何日か、何ヶ月か過ぎた。演奏している日々も頭の片隅にそれはあった。それから時間が経って、なんとなくボブディランはウディガスリーの自宅を訪れた。チャイムを鳴らしたのかノックしたのか、すると、メイドが扉を開けた。何か用ですか。と言われ彼は口ごもった。メイドの足元からまだ幼いウディガスリーの娘が飛び出して来た。彼はそれを見ると「何となく気が進まなくなった」と書いてその場を立ち去っている。それから40年経った。言葉はひとことで40年と言うが、言葉以外でこの年月の操作というものはできない。だから不思議だ。とにかく彼女が家の戸口で踵を返して立ち去るボブディランの背中を見送ったとき、彼女はたぶんまだ3歳だった。それから40年が経った。父の地下室の奥深くでたくさんの詩がひたすらに時が来るのを待っていたことを彼女が知っていたのかどうかわからない。彼女がいつその地下室の扉を開け、やがてイギリスのミュージシャンであるビリーブラッグという男に手渡すことになったのかその経緯はわからない。遠い昔に立ち去るボブディランの背中を見送ったことを彼女が覚えていたのかどうかわからない。ビリーブラッグはまたウディガスリーの信奉者のひとりだった。彼女は父の詩をどういった想いでビリーブラッグに手渡したのかわからない。いずれにせよ一度は誰かの手に渡るはずだった父の遺作とも呼べる詩の数々が、それを受け取らなかった誰かの背中を彼女が見届けてから40年が経ち、ついに一人の男の手に渡ったが、それらはぜんぶただの偶然に過ぎない。ビリーブラッグはアメリカのウィルコというバンドにその詩の半分を手渡したが、なぜそうなったかという経緯はやっぱりわからない。英語が読めれば色んな資料を集められるのに。彼らは共にその詩にメロディを付けて歌にした。40年というのは、ウィルコのボーカルであるジェフトゥイーディは、ボブディランがウディガスリーの家を立ち去ったそのときはまだ、生まれてもいなかったのではないか。「なんとなく気が進まなかった」というのは、そのときウディの娘が玄関先に飛び出して来なかったら、そのときふいの呼び鈴にメイドが扉を開けなかったら、たまたまその日にボブディランが彼の家を訪ねていなかったら、そしてボブディランがその日もしもウディガスリーの地下室に足を踏み入れてしまっていたら、この40年はなかったというだけの話で、カリフォルニアスターズという曲もなかったというただそれだけの話で、40年というのはすごく長いという、ただそれだけの話で、時間は不思議だという、ただそれだけの話だった。