2018.8.7

身体中から力というものが抜けている。誰の身体かというと私の身体ということになる。しかしそう言う私が誰なのかという話になる。未来のミライという意味不明の映画のラストシーンでは悪夢に迷い込んだ男児が「おまえは何者か」と夢の主に突き詰められる。幼い彼は自分を証明するものを持たず、母の名も父の名も言えない。しかし彼の存在を証明するものは、過去ではなく未来にある。「ぼくはミライちゃんのお兄ちゃんだ」そう叫んだ彼はもう名を持たぬ何者かではなく、自分自身で悪夢を終わらせる存在の力というものを手に入れる。そう書くと面白い映画に感じるかもしれないがぜんぜんおもしろくない。

色々とやることがあるのに一日が終わろうとしている。11日までに諸々の雑務や下準備が終わらなければ盆明けの工事までひたすら怯えて過ごす休日が始まってしまう。そうはなりたくないがあと盆まで3日しかない。現場へ行けば会社でやることの時間は削られ、会社にいれば現場で確認しなくてはならないことが確認できない。昨日の私まで、これを恩寵と感じて嬉々としてやっていただろうが、今は指ひとつも上げられない。疲れたのではなく果てた。昨日はじめてのひとりでできるもん施工を済ませ、

そうだ。私は昨日思いついたことがあった。それは部材を搬入している最中のことだった。部材と言ってもそれは家具だから、おそろしく重い。ポリエステル系樹脂の人大、カウンターと本体でいったい何キログラムになるのか、そしてポリ板を貼ったラワン合板を縦に横に組み合わせた木部のキャビネットというものに芯材がmdfの扉が付いているものが、何キログラムくらいあるのか、私と職人のふたりで運ぶ。えっさwほいさwなどとふざけた作業ではない。この現実はアニメや漫画ではない。だから熱中症になる。熱中症と日射病は違うから、日光を食らってなくても、単に温度の極めて高い空間のなかで激しい運動をすると汗が止まらなくなる。そろそろ血が出るんじゃないかというくらい汗が出るが、これは少なくとも私は現場以外で絶対に体験できないものだと思う。そう考えると良いような気もしてきた。しかし寝不足の状態とか、食事不足の状態とか、水分不足の状態にそれをやると、「死ぬ〜!」とかいうくそつまらない冗談でもなんでもなく、頭痛と吐き気に襲われて、それでもやると死ぬ。私は昨日は大丈夫だった。でも職人はもう60なのでやばい。今度からは荷揚げ屋を入れないと、職人が取り付けを行う前に死ぬ可能性がある。しかし重いものというのは本当に重いんだ。書いてもどうせわからないだろう。と書くとニヒリズムへの入り口だ、諦めてはダメだ。筋肉が実用的に必要とされる場面は日常生活でなかなかないが、重いものを持って、運ぶ、しかも階段を上る、3階まで、というのは、腕の筋肉じゃまったく足りない。ふたりで2メートルほどある石の塊を持ち上げているが、階段を上るとき、前で持つ私は、腰を落とさないといけない。あれ? だがなぜ私は腰を落としたんだろう。意識的に言葉で説明するのはむずかしい。それは実際にやってみるか、もしくは実際にやっている人を目の前で見るだけでいい。それですぐに理解できるはずだが、くそ。想像や記憶は細部のプロセスをすっ飛ばしてしまう。きっと腰を落とさなくては、人大が階段の段差に当たるんだろう。私は腰を落としている。それは80キログラムとかあるかもしれない石の塊を持って、膝を曲げてなおかつ全身から崩れ落ちないようにするためには、本当にあらゆるところで筋肉を使っているということを思い出してはじめて気づいた。ということは、私は自分が何者かを考える必要はないかもしれないということだ。人を救う何か観念的な認識をもたらしてくれるのは、実は想像や超越的イメージみたいなものではなく、単なる物理的なプロセスやそのつどの諸感覚なのではないか。と書いてる自分がいちばん意味がわからない。