2018.7.30

I only saidという曲が私の感情というものを考えるのに役に立つ。しかしこの感情はなぜ揺れているイメージを催すかというと私が存在している周囲の空気そのものが常に揺れているからにほかならない。それをサウンドで具現化するI only saidという曲がだから私の感情というものを考えるのに役に立つ。

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これはちょうどマイブラッディヴァレンタインがラブレスを発表したときのケヴィンシールズのインタビューであった。私がto here knows whenという曲やsometimesという曲に対して平面・立面という言葉を使ったことは間違いでなかったことになる。そして奇しくも彼はまたインスピレーションやイメージが物理的なプロセスをすっ飛ばすことに対して言及している?思考しているかのようにも見える。やはりあれらの曲は最初にあの音のイメージがあったということだ。そしてその具現化に非情な執念と気の遠くなるような年月を費やした。よってレコード会社は破産した。私は彼が一体何をしたのかインタビューを見て少し知ることができた。おそらくスタジオを変えまくったのが破産の大きな原因であると思われる。「スタジオにいる連中に邪魔される」と彼は言っていた。ミキサーやエンジニアのことを言っているのか。じゃあまさか彼はあの音をたった一人で作り上げたのか。

しかしこの気持ちはI only saidのあのずっと揺れている大気や感情の具現化された音にほかならない。大気が揺れている・というか気体が持っている性質から、心はつくられている。というのが目下のテーマだが、気体というものをもっと調べないとわからない。しかし気体は知覚が困難で、つまり目に見えない。いや、そこばかり強調すると何かべつの誤りに陥る。とにかく気体は物質であることは間違いなさそうだ。それは原子間がきわめて離れている?のか、とにかく流動的かつ体積に限りがなく無限に膨張する。通常考えられている人の心というものとここまで通じる物質がほかにあるのか、と書くと安易だなあとなり、物理学専攻の学生にも馬鹿にされるかもしれない。馬鹿な文学生。心が物質なのかどうかということは、心はどこにあるのか、というタイトルの本で延々と哲学と物理学の両方の観点から述べられている。が、私には難しくてよくわからなかった。

しかしsometimesを聴いてみると、キースジャレットが心は音楽のところにあると言った意味が私にはわかる。たしかにそのようだ。と言うとまた笑われるか。だが私は誰かが私を笑うその気概は理解できる。短絡さ安直さは悪だからだ。そして私は見る景色のなかにこの心がある。そう私は言い切って、さあ笑えなどというニヒリズムは絶対やらない。私がやるのは知恵をくれだ。私はひとりぼっちの考えに陥るつもりは毛頭ない。知らぬ間に陥ることはあっても私は好んで自分という国の孤独な王にはならない。

私は小澤とは違う。しかし小澤の知恵が必要だ。なぜ音楽で感動するのか、この気持ちというものは何なのか、あるのか、ないのか、あると言えるのなら、どこにあるのか、それは見る景色のなかにある。しかし、なんとなく大気と景色は違う気がする。大気が揺れるのは物質的条件で、景色は蓮實重彦が言うように、この眼差しそのものの遠さのなかにある。近さではない。眼差しの近さとは、保坂が小説において景色の描写を語ったときに言っていた、「都市景観における視界のジャミング」と、そんなことは言ってなかったっけ。とにかく自然の景色と人工物の景色はそもそも本質からして違う、とは言っていたが、保坂は都会では視線の遠さは常に消失するみたいなことを言っていた。つまり当たり前のことだが、都会においては360度の全方位が人工物によって遮られ自然界では起こりえない眼差しの近さが形成される。それはたぶん深い森の奥の閉鎖感とも違う。人工都市では開放と閉鎖が同時に起こっているとでもいうのか。とにかく都会では、悪徳と腐敗の蔓延る現代のゴモラ、東京では、眼差しの遠さそのもののなかにある景色は生まれない。

メロディが眼差しの遠さのなかに生まれることは確実だ。これは間違ってないから笑われる筋合いはない。もしくは眼差しの遠さそのものが最初からメロディなのか。いややっぱり間違っているかもしれない。安直で短絡的で幼い。しかし私はケヴィンシールズの音作りに対する思考を言い当てたように、メロディが景色のなかにあると言い切ることによって無数のメロディを生んできたあの英雄たちを代弁していたら、良い。何にせよ安易で自意識過剰だが、今は言い切ることに意味がある。達人伝という漫画のなかで丁烹という男は単身で盗賊団の根城に乗り込む。度が過ぎると主人公は彼を制止するが、丁烹は「度が過ぎている。そこに俺という人間の証がある」と言って、突っ込む。今はそれに倣うことにしよう。音楽は見るこの眼差しのなかにある。そしてそれは心そのものである。誰か知恵をくれ。chaiのsayonara complexという曲。そこに私の心がある