2018.7.26

to here knows whenという曲が私の空気のサウンド化というものを考えるのに役に立つ。空気は唯物的なビートが無い・排除されている、のではなく、無限に引き伸ばされているのではないか。という妄念が。だが物が持っているかたちは、ピン角、R曲率、凹凸、また柔らかそうなもの、透明なもの、反射するもの、なめらかで絶え間ないもの、また自然の幾何学的組織、葉の葉脈、動物の血脈、糸の繊維、鉱物や結晶の原子配列、それらがかたちのない火や水や風・空気というものの力を受けて常に変形・変容するという事実は間違いない。しかしそこには時間という決定的な物質、しかし時間は目に見えない。物質であることすら知り得ない。しかしそれが作用していることは間違いない。

ならば時間とは何なのか。それは物理学ではなく哲学、ひいては精神病理学において説明できるという本もあった。つまり時間は過去と未来の二点に結ばれた直線状の運動なのではなく、個々人の自己というもの、そのものなのだということだ。時間は感覚なのだといえばそれで終了だが、そう考えると時間は線でも点でもなく、点から放たれた線、あるいは線を結ばない点だという、例によって安易な言葉遊びに逃げることも、できる。

あらゆる唯物的なビートを保持した物のかたち、あるいは、その物にかたちがあるということ自体が、唯物的な、ビートなのだということを、私は、発見するに至った、といえよう。しかしかたちを留めない水や火・あるいは目に見えない風、空中の気体、それらはまた分けて考えなくてはいけないのか。しかしマイブラッディヴァレンタインのto here when knowsという曲で起きているあの空間、それは漠然としたどこか空っぽの空間ではなく、あれは、その曲をその耳で聴く者の周囲を取り巻くこの空間だ。時と場所を告げているその曲名が何よりの証拠で、この空気があのサウンドであることは間違いない。とか言って、間違いないのだが、この印象を一体どう立証するのかはわからない。

だから目に見えないものはそこに無いのではなく、あるものが無限に引き伸ばされているだけなのではないか。ということを思いつく。物が持つかたち、角や曲線、平面でなく立面が構成するその三次元の空間のなかに、上下左右あちこちに突き出たたくさんの物のかたちは、無限に引き伸ばされることによって、目に見えないものとなる。いや、意味がわからない。そうじゃなくて、物のかたちというものが、あの時間と呼ばれる自己のように、点から放たれた線・線を結ばない点として、あらゆるかたちというものから解放されたときにはじめて、風や気体、ひいては心やメロディといった目に見えないものになる。…というのが間違いなんだということを言いたかったのだが、ふつうにわけがわからなくなってきた。

しかしマイブラッディヴァレンタインのあの音を作ったケヴィンシールズという男は、あの音を作るためだけに、レコード会社を破産させた。というのは名高いエピソードだが、私も詳しく調べていないから、細部は間違っているかもしれない。80年代の後半、シューゲイザーと呼ばれるジャンルはたぶんまだ無く、ジーザスアンドメアリーチェインというバンドがそれっぽいことをやりだした頃だったのではないか。と思うが、その頃、ケヴィンシールズの頭の中にはある音があった。これは非常に興味深く、しかも私は勘で書いてるものの、おそらく間違いじゃない。彼の頭のなかにはある音のイメージがあったが、イメージやインスピレーションはいつも、その物理的なプロセスをすっ飛ばす。インセプションという映画のなかで、「夢のなかの建物は物理法則を無視してインスピレーションのみで作られる」と言っていたのと同じ意味だ。彼の頭のなかにあった音のイメージは、当時の録音技術では再現不可能なものだった。それは非常におもしろいことだ。つまり当たり前だが、人間のイメージやインスピレーションは、その物理的プロセスをすっ飛ばすからこそ、到達不可能なポイントに容易に到達できるということだ。エッシャーのだまし絵のようなパラドックスも、夢の中では容易に設計できる。しかしケヴィンシールズの頭のなかにあった音が、どれだけ具体的なレベルでイメージされていたかは本人にしかわからない。ましてや本人にもわからない。それが当時のテクノロジーで再現が難しいものだと気づきはじめた頃には、おそらくレコード会社に使わせた制作費はかなりのところまでいっていたのではないか。その頃はマイブラッディヴァレンタインなどというバンドはほとんど無名だったはずではないか。レコード会社も破産するまで彼に投資したのは何か理由があったのだろうか。しかし具体的に彼は何をしたのか。それは本腰を入れて資料を集めて調べないとわからないが、音を作ろうとしたんだから、山ほどの機材を買ったんじゃないか。とにかく制作期間は長かった。しかし彼の頭のなかにあった音がどのようなものだったのか非常に気になる。まして音は建築物のイメージと違ってもっと漠然としている。音がイメージされるとは、どういうことなのか。そして最終的にどういう物理的なプロセスを踏んで、彼はあの音を作ることができたのか。気になる。

そしてあのアルバムを完成させたマイブラッディヴァレンタインは突如表舞台から姿を消す。それから十数年後くらいか、2010年かそこらだったと思うが、「テクノロジーが音に追いついた」と言って急に活動を再開する。そして3枚目のアルバムを出したが、私はなぜかずっとそれを聴いていない。聴いたほうがいいのかなぜか迷っている。しかし音楽においてテクノロジーの発展というものがどこでどう作用しているのかが気になるが、作れなかった音が、科学によって、作れるようになるものなのか?

しかし明らかにある音のイメージの具現化を図ってつくられたアルバムというのはたしかに存在する。すぐに思いつくのは私はゆらゆら帝国の最後のアルバムだが、あれは普通にコンセプチュアルな、「あの音」を目指して作られているアルバムだということは誰の目にも明らかであり、くわえてストロークスの一枚目のアルバムは明らかに「あの音」を鳴らすというコンセプチュアルなバンドとして売り出されている、ある種の計算が見える。つまり形式の問題だが、ゆらゆら帝国ストロークスも形式を超える何かがあった。形式という問題は、アークティックモンキーズの新譜で嫌というほど思い知らされる。あの新譜には形式を超える要素はなかった。しかしそう考えても、マイブラッディヴァレンタインのケヴィンシールズという男はよくあの音を作ることができたと思う。彼は「奇妙なまで私心のない悪魔のような存在」で、非道ともいえる執念を持ってあの音の具現化に臨んだのかもしれない。ケヴィンシールズのギターのチューニングはあの「大気をかき混ぜる」かのような轟音を鳴らすためだけに調律されている。ソニックユースもやっているが、ただ自分だけのノイズを巻き起こすためだけに調律されたオリジナルのチューニングに過ぎない。しかしwhen you sleepのなんとかっこいいことか。