2018.7.23

エイフェックスツインの4という曲はなぜこんなにかっこいいのか。私は高校のときずっと聴いてた。なぜかというと私は初めての洋楽はレディオヘッドのキッドAだった。私はインターネットや月初めにだけ見られるCSの洋楽チャンネルやブックオフの10年前の音楽雑誌ばっかり調べてた。キッドAのころトムヨークは鬱病だったが正確にはその前のOKコンピュータのツアーからだった。ツアーというものは必ずミュージシャンを疲弊させるようだというのはそれからトムヨーク以外の色んな人のインタビューを読んでいって知った。ツアーは基本的にミュージシャンにとって創作とはまったく別のザ・仕事だからであってしかも世界中を飛び回り休みもなければ「なにやってんだ俺」と考える時間もない。と言うけど絶対嘘だと私は思う。だがトムヨークは鬱病を発症。①音楽を作ることができなくなる。②ギターを弾く意味がわからなくなる。③いつどこにいても閉じ込められている感覚が消えない。等々インタビュー番組で深刻そうに語っていたが私は高校生だったのでかっけーと思った。そのときトムヨークが聴いていたのがエイフェックスツインだったときいて私は当然エイフェックスツインと検索してamazonでなんでもいいからアルバムを買って聴いてた。トムヨークは書いては捨ててた曲の断片的なメロディやフレーズを拾い集めはじめた。という手法は、トーキングヘッズのリメインインライトというアルバムのやり口を参考にしてる。それまで未熟な情動エネルギーを燃料にギターロックでべちゃべちゃ叫んできたトムヨークは病の発症とともにはっと我に返り、恥ず。と言って、音楽に関わるあらゆる感情的な要素を断片としてひたすら裁断し、これを何か感情のようなものとして貼り合わせた。というのがキッドAでこれは99%は断片的なメロディやフレーズの縫合でつくられている。なのでこれまで彼らがなにか演奏するたびに、どうしてもダイレクトに接続してしまっていたあの若さのエネルギーの恩寵と弊害から、キッドAは見事に回避してる。

いやこんなまがいものの文を書きたいわけじゃない。自らの青春時代と交え回顧的で文学的な言い回しと浅はかなロック賛美がいやだ。そうじゃなくて私は昨日池袋にいた。また、と言うべきか。べきだ。その日の朝、清水の家のソファで目が覚めて、小澤と一緒に清水の家を出て、汗だくで、道が長くて、国分寺駅で「ディスイズザバーガーじゃねえか!」と小澤さんとそういう名前の知らないバーガー屋に入ったら意外にもシステマチックで、あ、そうだ。私と小澤は色んなバーガー屋に入ったじゃないか。バーガーというものの陽気な感じ、能天気で元気で明るい感じ、きっと我々にピッタリだ。ヤマコービルのドムドムバーガー、山大前のフレッジドバーガー、旅先でマクドナルド、モスバーガーで水、なぜかハンバーガーは私は小澤と共に食べるときがいちばん楽しい。それで私は会社に行って、うわあああとか思いながらやって、帰りにニトリでハンガーを買って、「東京は物がたくさんある」と思いながら帰った。家に帰ると汗だくで掃除とか洗濯とかゴミ出しとかをしてたら夜になってシャワーを浴びて寝なくてはならないときに畠山が池袋に来たのだった。9時、とかだった。

いけるかな。いこうとおもえばいけるかな。ということを私は疲弊した身体で思考していた。池袋の西口で畠山に会うと今日は休みだったと言われ今日は日曜日だと言われた。しかしなにを話したのか。人生についていろいろ話したかったが私はまた調子がうまく出なかった。え?え?と言われて私は声が小さかったらしかった。しかし居酒屋を出るともうゆくあてもなく畠山はめんどくさい、もういやだと言って泣き始めた。実際には泣いてないが心は泣く。先週と同じじゃん!と私は思った。「あついよ、あるけないよ」「いますぐ死にたい」「あー!おもしろいことないかな」「おもしれえこと降ってこねえかな!」清水だ。「アイス食べたい」「清水と同じこと言ってるよ」「アイス、アイス」「もう、めんどくさい。」歩くのがめんどくさい。電車に乗るのがめんどくさい。電車に乗って座って目的地まで着くのを待っているのがめんどくさい。電車を降りるのがめんどくさい。そこからどこかへ行くのがめんどくさい。なにかおもしろいことはないか。降ってこないか。「こない!」と私は清水に言った。畠山は池袋の道端のスロープに腰掛けて私のケータイのラインを使って清水に「しね」と送りはじめた。

私は意味はわからないがわかる気がする。私たちに起きているのは非常に凡庸な現象で、使い古されたテーマに過ぎない。そんな気がする。そしてそういうのを小説にするのは、ほんとうにつまらないことだと、ましてや、そういうなかにこの現実を持ち込むのは、ほんとうにつまらないことだと、いう気がする。でも確実なのは、私たちは満たされないフリ、死にたいフリ、怒っているフリとかをしているんじゃない・あの仕事ができるフリとかきついフリとかをしている人たちに比べたら。ということだ。つまらない。ムカつく。どこかに行きたい。どこかどこかどこか!とみんな思ってるようだった。だが私は断言できるが、彼らは、彼女らは、私たちは、単に物理的な抱擁を求めているだけに過ぎない。

たぶんほんとうにそうだ。抱擁というのはヨシヨシとか愛してるとかギュッとかそういうのもあるがそういうのじゃなくて単に肉体が触れることで話は済む。それが済まされないのは、彼・彼女たちに対の鏡像である雌雄の欠けたピースがすっぽり抜け落ちているからだ。というのは恋人がいないからだ。というのは異性の性器を保持していないからだ。と言うと急に精神分析っぽい。同性愛でも同じことだ。池袋の、ほとんど座標軸も同じ西口の道端で、清水という「男」と、畠山という「女」が、ちょうど一週間のあいだを隔てて、ほとんど同じ時間帯に、「街コン…」「結婚…」とつぶやいたのが私は、展開された折り箱の世界がしかるべき折り目に沿って折り重ねられたのを目撃したかのようであった。それはまったく別の日の別の時間に同時に起きたことで、私は同時に存在しており、彼らは完全な鏡像であった。あれがフリだというのか。何かキツかったり、辛い振りをしているというのか彼らが。あれは展開された世界をふたたび綴じる、単なる折り目に過ぎない。清水と畠山は入れ替わっている。というか、すごい似てる。