2018.7.8

身体というテーマはすでに誰かがやっていて保坂の小説にも当然出てくる

『「ちょっとやってほしい?」彼女はいっそう高慢そうな顔になり私はぞくぞくした。「セリナちゃんの世界じゃないよね」と友達の隣りの女の子が言うのが聞こえてきた。セリナというのか。私はすっかり忘れていた。しかし途中から来たあの男は本当に友達の部下か後輩なんだろうか。こっちと全然関係なく自分たちの世界を作っている。「いいねえ!」セリナは私のシャツの裾をズボンから出し、裾から手を入れた。シャツが半分までめくれ上がり、セリナは私の胸の地肌に爪を立てたから私はうれしくなった。「いいねえ!」「いいの?」セリナの手は冷たくて気持ちいい。「いいねえ!」「いいの?」「いいねえ!」と言い終わらないうちに、セリナが地肌に立てた爪でギーッと引っ掻いた。「痛ッ!」』

というところで『しかし痛さとは何かではあった。じんじん痛いそこには確かに自分の皮膚がある。体かどうかわからないが、確かに皮膚があった』というのは言いすぎだと思う。でもどうすれば言葉で身体のことに少しでも近づけるか。身体の感覚は、言葉の成立よりも前にあるはず・あったはずだ。でも言葉を覚えてからは感覚は数えられるぐらいになってしまった。なぜなら言葉は世界のあらゆる事象をパッケージ化してしまうもので「痛さ」はどれだけ痛くても「痛い」としか言いようがないというか、痛さにもいろいろあるのにみんな「痛ッ!」というから、そういう場合、「痛ッ!」であらわされた感覚は、後からその言葉によって作られてしまうのではないか。という気がする。でも人間の感覚が言葉を越えた容量の痛みや快感を与えられた場合、言葉も機能しなくなるというのは当然のことなのかわからない。しかしやはりドキュメンタルという松本人志の作品で、宮川大輔ジミー大西の後頭部に極太のゴムパッチン打ちつける。誰もが次にくるジミー大西のリアクションに身構えるその一瞬、彼は「アアッ」と叫んだあとに小さい声で「あっつ〜」と熱がる。でも本当に痛いときは「痛ッ!」じゃなくて「あっつ〜」となる。もしくはかゆかったりどっと疲れたときのような、取り返しのつかない失敗をしたときのような絶望感に襲われたり、しびれたり場合によっては気持ちよかったりする色々な痛みがあって、それはいいとして、その「痛ッ!」がどれだけ痛いのか、その「あっつ〜」がどれだけ熱いのか、言葉でどれだけやってもわからない。だが生じる疑問は、はたして人がそもそも言葉でものを考えたり、世界を認識したり、感じている以上は、個々人の身体にかかる様々な諸感覚は、そもそも言葉以前のレベルで本人にも自覚できていないのではないか。というものだが、決してそんなことはない。という気もする。だって言葉にできない感覚というのは確かにあるから、じゃあ言葉にできない痛みや気持ちよさというのも確かにあるはずだ。小説は色んな小手先をつかってそれを表現した気になるが、たとえば村上春樹だったら生きたまま皮を剥がれることの痛みや射精のけだるく重い気持ちよさみたいなものを何か良い感じの比喩で書くが、すごいわかりやすいけどこのわかりやすさというのが問題だ。だが言葉というのは結局は言い回しで魅せることがいちばんの道なのか。

それにしても今朝は本当に今朝あったことなのか。すごい遠くに感じるが実際遠くへ行った。本当に時間は地続きで動いているものなのか。たぶん帰ってきてから一回寝て起きたから断線しているように感じるのか。遠くに感じるというのは時間のことだ。遠くへ行ったというのは距離のことだ。時間と距離はどういう関係にあるのか。5時には起きたはずだ。そして洗濯をほした。電車に乗った。降りた。人が少ないと思いながら歩いて記憶のなかの駅とかなり違うが、すぐ色々な場所を思い出すことができた。そういえばここをこうやって向こうへ向かって歩いて行ったんだと思い出しながら間違いない。間違いないと思いながら歩いた。

そうだ。栃木に行ったとき私は上司の車の助手席で、上司の車にはカーナビも付いていなくて、めちゃくちゃざっくりな縮尺の地図を印刷した紙が三枚「持ってろ!」と言われて私は持ってた。上司は私の持つ地図を覗き込んで「だいたい3キロだな!」と言って荒っぽい運転で木工所まで飛ばすが車を運転しながらも「1キロ過ぎたな」と何でわかるんだろうと私は思った。「ん?! 川があるな!」私たちは橋を渡った。そうだ。そうだよ!と私はそのときも思った。スマホのナビ、マップのルート、私たちの現実を認識する意識はそういうアプリ的で平面的で直線的なものに変わりつつあるが、本当だ!川があるなんて気付かなかった。本当はもっと地形は入り乱れている。そういえば彼・上司は現場のなかで今いる場所がわからなくても図面の端に書かれた方位記号を見て「いま太陽どこだ?」と私に聞いたではないか。街を流れる川なんて山中の地形の乱れに比べればなんてことはないはずが、私は地図を手にしているのに青い線で引かれた川の存在にも気付かないなんて。それで私は小田原の駅にいて、つまり栃木にいた私は時間も場所も遠くはなれていまはここにいるというわけだ。すなわち身体の移動。マップのナビは使わないで記憶を頼りにして、たしかこっちだった気がする。というやり方、そうだ。それで私はいかにふだん道に指標を定めていないかを思い知った。私は本当にふだんフィーリングで生きているんだ。だから現場の判断や書類上の雑務など実際的な作業に手間取るんだ。で思ったよりはやく海に着いて水が前より濁っていたが前来たときは夏も過ぎていて10月くらいだった。いまは何月だ。そして前の10月からどれくらい時間が経って、でも場所は前と同じところにいる。だがそのときはなんかものすごい疲れていた。そのときと言っても今朝のことだ。よく考えたらなんで5時に起きたんだろうということを考えていた。ななめった岩場で寝ようと思って横になったがが斜めになっているので身体を平行に保つのに力を入れていて結局休めない。身体を休めたいと思った。なんかめちゃくちゃ疲れていた。絶対5時に起きたからだと思った。あと電車に乗っている時間が長かったからと最近運動をしていないのと軽く寝不足の状態で目の筋肉を使いすぎたからだと思った。湿気があり暑かったけど汗はかいておらずただ身体が重かった。しばらく海の音も聞かずせっかく広い場所にいるのに頭上の空も見上げずじっと目を閉じて一人でいるのに疲れた一人でいるのに疲れたと考えていて、だがものすごい気合いを入れておき上がって、頑張れ頑張れと思ってまた来た道を歩いて戻っていって、そのあいだも何も考えられなかった。自分が一人だなんて結局虫のいい話というか響きの美しさだけだ、という私は本当は実際に一人なんだけど考えは私を一人にしない。考えは勝手にはしり私を一人と思わせない怪しいところまで連れて行ってしまう。とでも言えよう。とにかくはやく家に帰りたいと私は思ってまた電車に乗って2時間くらい座って家に帰ってきて倒れるように布団に入って目を閉じたらいつの間にか数時間経っていて頭がすっきりした。すっきり。非常に良かった。「治るのは素晴らしいことだ」というぼのぼのの言葉を思い出した。日記らしい日記になった。本当は今日なにをしたかなんて忘れるほど色んなことを知ったり考えたりしたほうがいいなどということは極端な考え方でそれより誰かに会って笑って話がしたい気がする。何を言いたいのか。なにもない