2018.5.8

Wは1500である。Wというのはワイドと読む。数字はミリメートルを表している。しかし人工大理石は大理石の模造品である。大理石というのは気の遠くなるような年月をかけて冷えて固まった溶岩の一種である。すべての鉱物の起源は火である。火は地中深くに発見されるまでは天にあった。それは太陽のことで、円という概念はそのようにして地上からそれを見上げた人間たちのなかにはじめからあった。火ははるか昔タイタン族のプロメテウスが天より地上に持ち帰ったものだ。かくして火より生まれたあらゆる物質に人間の起こす新たな火が加わった。それは人工物というものだ。大理石は加工されてはじめて人の神殿になりうる。その大理石を木々の蜜から生成したのが人工大理石であり、これは混ざり物の鉱物であった。Wは1500でもそれは製造過程で収縮を起こし大きくて3ミリほど縮まる。しかしこれは、事実だがただの言葉に過ぎない。そして語った現実と語られた現実は違う。なぜかはわからないがそういうふうにできている。私がいまいるのが語られた現実だ。私がいま触っているのが語られた現実だ。めちゃくちゃ重く、荒々しい厚みがあり、粉っぽく、つるつるしており、持ち上げた手のひらに食い込んで痛いという感じがそれは人工大理石だ。という真面目に文学的描写で言ってもここは施工現場であり、ここにはすべて確定的な事実しかない。何をもって確定的とか事実とか言っているかというと私のそれを担保しているのはこの人工大理石という現にそこにある物質でありそれを持っている私の皮膚感覚というか視覚というか身体を起点にした感覚のすべてだ。これらはすべて一瞬のことで私の意識にまだ言葉として浮かび上がってすら来ていない感覚だ。それはフォークナーの八月の光でいうところの意識の流れというもので、この小説では人物の意識の流れがイタリック体のフォントで書かれる。日本語ではゴシック体になる。リーナの「あら、〇〇だわ」。クリスマスの「俺は何かしでかすぞ、俺は何かしでかすぞ」。そしてハイタワー牧師は初めて祈る。「ああ神様、どうぞ私に力をお与えください。どうぞ私に、神様、力をお与えください」。それは物語のクライマックスの凄まじいシーンだ。ゴシック体のそれは人物の気持ちや内面を描写するものではなく単に、何者かによってそれを意識させられているという、不気味かつ神聖な何か超越的なものの意思を感じさせるが私にはまだその意識は流れていない。私はハッキリと頭のなかで何だこれ?!と思った。何が起こったのか、という経緯は非常にややこしく入り組んでいる。一言で言えば発注ミスだが、これは私の上司が的確かつ迅速な判断をしたがゆえに起こった、現場というある種特殊な世界で起きる奇妙な宿運のようなものだ。そしてその現場には私がいる。私は現に色間違いの白色の部材を手に持っているが、そのWが1500なわけだから重量はざっと10キロくらいはある。ちょうど紀元前241年に趙国李牧が引き起こした六国による巨大連合軍「合従軍」によって攻められた秦国が自国の持てる軍力のすべてを総動員し、国門「関谷函」によってこれを迎え撃ったように、我が社の名だたる将軍たち、みんな辞めたからいまは二人しかいないが、凄まじい物量が予想される過酷な夏工事を控えたなか彼らは結集され、みんな辞めて人手不足だからだが、私は急遽そこへ徴兵された。「内からの台頭が無ければこの国は滅ぶ」と麃公将軍が信に告げたように「夏までに仕事を覚えろ」と言われて私には上司ができた。私がなぜどうしてこんなに現場にいて楽しいのは、不可能なことをやれと言われているからというほかに、上司が私に言ったひとつの言葉があるからだ。と言うと、まるでリクナビだ。「ここでは『たぶん』とか『思う』とか言うな。確定的な事実だけ口にしろ。ここにあるのは机の上で書いた設計図じゃない。ここにあるのは確定的な物質と事実だけだ。だから俺とお前は対等だ。俺は社長のやり口とは違う。お前は思ったことを完全なかたちで相手に伝わるように口にしろ」と、こんなことは言っていないがそういうようなことを言った。それは私がいま手にしている発注ミスの物体とまったく同じレベルの事象だ。この物体は消しゴムで消すことはおろか、何をどうやっても動かすことができない。私の知覚がそれを証明している。捨てればなくなるし、置いておけばいつまでもそこにある。休憩時間に私がそれを職人に話したら職人は結構ウケていた。常に物理法則という条件に拘束されている現場の人間は抽象的なことは決して言わず、荒っぽく、やけに開けていて、そういう世代の人が多いというのもあるが、今日はじめて会った職人は少し毛色が違って、私が叫びたかった現実の衝撃というものに結構共感してくれた。「俺はいつも夢を食っているバクさ」とその人は言った。わけがわからないと思うが私は爆笑した。確定的な事実を言う。私は社会に出てみて良かった。おそらくこの夏、私は死ぬ。だとしてもそれが楽しみだ。つまり現実というのは消しゴムで消したりマウスポインターで動かしたりできない物質と人間とに満ちあふれている。それが恩寵でなくて何か。という話で、でもこの夏に自分が死ぬと思うとすこし怖い。だがここにいるのは本当に、小説というものを考えるのに役に立つ良い場所だ。