2018.3.25 雑司ヶ谷 

昨日は池袋のシネリーブルでスリービルボードという映画をみた。

 おもしろかった

◯娘を殺され復讐鬼と化した母親が、町外れの三枚の広告板にあるメッセージを打ち出したところから物語ははじまる。

それは赤地に黒のメッセージでこう書かれてある。


『どうして?ウィロビー署長』

『犯人逮捕はまだ?』

『娘はレイプされ殺された』


捜査は半年間ものあいだ進展しておらず、証拠不十分により打ち切られようとしている矢先だった。偶然通りがかった悪警官のディクソンはパトカーのなかからその看板を見つけ、車を前進させながら一枚ずつそのメッセージを読み上げることになる。

たぶんこの映画はSNSが炎上する話で(それだけじゃないけど)、だからこの母親が打ち出した世間と犯人に対するひとつのメッセージは、三枚の看板にきわめて短い文で連なっている、というのが良い。それはますますツイッターのようなSNSを思わせ、それをすべて読み上げるために、ディクソンは道なりパトカーを前進させて行かなくてはならない。というのが、もし看板が一枚だけだったとしたら、決して生まれなかったであろう不穏な効果(つぎはなにが書いてあるんだ?という嫌な興味に動かされた画面スクロール的な効果。)を生んでいる。気がする。

そしてその三枚の看板が「できごとは連鎖する」という宿命のもと、感情が感情を呼び、やがて別の事件を引き起こし、ツイート炎上のごとく、町の人間の運命を変えていく。というのが大筋のあらすじで、主要な登場人物はおもに①復讐鬼と化した母親・ミルドレッド②余命数ヶ月の警察署長・ウィロビー、③マザコン暴力悪警官・ディクソンの三人からなるが、なにがそんなにおもしろいかというと、この映画は、ものすごい笑える。

というのもそのシリアスさが笑える。「道徳家が憤慨し、悲劇詩人が嘆き悲しむところのそれを笑う」というのはジョセフキャンベルのことばで、このスリルとサスペンスに満ちた映画はほんとうに、しかるべき耳をもってすませば、愛の神秘と生の喜びがオーケストラのシンフォニーのように美しく流れている。しかしそれは神話のオリンピア的な笑いなので、泉のように澄んだユーモアをすくうにはけがれなき手でもってなくてはならない。つまりおもしろい作品に共通しているこの重層的・多奏的な構造というのは、見る人が見れば笑うシーンも、あくまで緊張と暴力とほんの一さじの悲しみで、張りつめた深刻な場面としてつくられている、というのが良い。たとえば町外れの道路に投稿されたこの三つの看板は、物語の中盤で文字通り炎上することになるのであるが、このシーン、もはや燃え上がって収拾のつかなくなったツイート(看板)へ消火器一本で「ウオオオ!」と立ち向かって行く母親のシーンは、何かめちゃくちゃ笑える。(息子が「母さん、もう手遅れだ!」と叫ぶ)

だってこれは文化の違いだけじゃなく、ぜったい、作ってる側も「これはおかしい」という意識のもとそのシーンをつくっているはずだ。いくらアメリカ人でも消火器一本で中規模の炎に向かって行くのはおかしいし無理だ。そしてその母親の悲しみは本物だ。だからこのシーンはギャグシーンではない。それが良い。娘を失ったこの母親は、ヒステリーな要素などひとかけらもなく、まるで男の血に突き動かされているかのように、狂騒に駆られ、怒り、そしてまた彼女の怒りが引き起こした誰かの怒りの炎のなかに、ちっちゃい消火器一本で突っ込んでいく。

犯罪、サスペンス、スリル、暴力、社会問題、それら使い古されたテーマは完璧なドラマ構成により三人の主人公の感動的かつコミカルな群像劇と化し、調理され、そしてその三枚の看板が町に引き起こした奇妙なできごとの連鎖は、ある感動的な結末を生む。その結末は、オチと名付けるのにこれ以上ないほどふさわしくうってつけのものに他ならず、だがハリウッド的な大げさな終わり方は慎重に避けられていて、今度は感動的な意味で、笑える。

それは一種の福音にほかならず、実際物語が展開していけばいくほど、彼女たちは本来の目的を見失っているし、そんなこといったらそもそも目的なんてあったっけ?  みたいな感動的な人生のテーマがこの映画にはある。といえる。

そしてこの映画のもつすべての浄化作用は、あまりにかわいい、「わるいことしたら、あやまる」というあまりに自然で、シンプルな、素直でかわいい教えによる。エンドロールをむかえたこの物語において、もはや償われなかった罪はひとつもないかのようだ。

はじめは醜い怒りだった。だが彼らは団結して、やがて町はひとつになった。

などという腐った教えにこの映画は従わない。この映画が従ったのは、たんに「何やってんだろう私たち。。」というオリンピア的な開かれたバカの聖域と「ごめんなさい」というシンプルなルールだけだった。