2018年1月25日木曜日 東京 寒い

数字はほんとにすごい。私は図面のなかにスプリングを使った構造を導入したいがバネのかかる力というものを人間は数字であらわすことができる。しかし私はまだその方法がわからないので書けない。物理とはあらゆる目に見えない運動・現象・はては概念や存在といったものを数字という鍵で可視化してしまう。ガリレオガリレイも「この世に開かれた巨大な書物を…」みたいなことを言っていた。それはこの世に知覚するもの・されないものも含めて数字で読めるということだ。数字を「読む」ということは義務教育的な常識(さんすう・数学)からはまったく外れる、単に求道者の到達する開眼に近い。しかるべき修練を積んだ英雄にのみ与えられる。私は数学というもの基本的な論理的な思考というものがほとんどと言っていいほどできず、きっとガリレオなんかが見た同じ景色を見たとしてもそれを数字のように読むことはできない。数学的な思考ができたらこの世は一変すると思われる。かと言って私がどのようにこの世を知覚しているのかといえばある種の夢というか、アポロン託宣というか、なにを言っても宗教的でテロリスト的になってしまうがこれはやっぱり私のなかである種の論理というものがしかるべき道順をすっ飛ばして極端な考えにたどり着いているのかもしれない。書き言葉でこういうことを書くとすぐシリアスになるのが非常に残念だ

名前は忘れたがソクラテスの弟子が、ペロポネソス戦争に敗れたあとに寡頭政になったアテネを抜けスパルタに入るべきか否かといった相談を師に持ちかけたところ「アポロン託宣をきけ」と言って終わった。意味がわからない、と言うのは早すぎる。わかるような気がする。また別の弟子だったか、はじめてソクラテスに会ったのは狭い路地裏で、彼は「噂のやばい哲学者だ」とおもってうつむいて通り過ぎようとしたところ「きみ。新鮮な魚はどこで手に入るかね」「い・市場です」「ならば知性はどこで手に入るかね」彼は答えられなかった。「ついてきなさい」彼は連れていかれたらしい。

アポロン託宣をきけ」というのは「自分で考えろ」ということだ。と塩野七生が言ってた。というかこれらの弟子のエピソードも塩野七生の本にのってた。私もそういうことだと思う。ソクラテスは最後には疲弊し没落していく都市国家アテネの民衆たち、もはや自分たちのすすむ道を自分で決められずイライラしてしょうもない民衆たちの手によって、賛成多数により死刑になる。命より大事なものがあるから命は大事だ。とそこまではっきりソクラテスは言わないが毒杯をあおりさっぱりと死ぬ。ちなみに「悪は死よりも疾く駆ける」とは言った。死刑が求刑された裁判の席でだ。命より大事なものがあるとはっきり言うのと同じことだ。「わたしは死刑に賛成です」とジジェクという現代の哲学者も言った。命より大事なものがこの世にはあるかららしい。「すみません俺たち馬鹿なんです。世界より大事なものがあるんです」とナックルは言った。人類の命運をかけたキメラアント討伐のミッションのなかで彼は友の尊厳をまもるというただひとつの理由のために、待機という作戦を捨てる。「新たな誤算、大切なものの重さ」というナレーションが入る。命より大事なものがないひともいて、そういうひとは最新の医療技術で延命したり精神的にも自分が変わってしまいそうなことは考えるまいと人生への参加の拒絶を決め込んでる。あとそういうひとは好奇心がない。星野源の話ばかりする。好きか嫌いかでしか食べたり聴いたり見たり考えたりしないのですぐ星野源のファンになる。ファンというのは消費者のことだからそういうひとは星野源と対等でいる機会を生まれながらにして摘まれている労働の傑物の類。表情やしぐさがテレビで見たトレンディドラマでつくられている。なにごとも自分で決められない。星野源は英雄だが誰しもファンという名の民衆は英雄ということばを知らぬ。だから彼らはかならず最後には法廷で星野源を死刑にする。民衆はアポロン託宣をきけないんだから、どんなに源さんのラジオを漏らさず聴いてようと源さんの記事の載ってる雑誌をかたっぱしから買い集めようと最後にはかならず法廷で星野源を死刑にする。星野源は毒杯をあおって死ぬ。毒杯というのは毒入りにんじんの入ったジュースのことで苦しみはない。はじめ手足の指先が冷たくなりそれがだんだんと胸の中心へとせまってくる。強烈な眠気におそわれ目を閉じると済む。