2018.5.21

異動になってからわたしは上司がふたりいる。ひとりは齢70を迎えるところ太陽のように熾烈。炎を抱えながら生の暗夜を突き進むといったところか。もうひとりは齢27を迎えるところ私とほぼ同世代で口癖「あいつ陰キャじゃんww」そしてその明るさその陽気さが「暗い……あまりにも……」という李牧のセリフを想起させる。彼は孤独に蝕まれている。そして怒りは他者に向く。心の小ささはなるべく見せないようにしないと。そういうこともないのか? 小澤さんは別に隠したりしない。いや、つよがりでへりくつだが思考の果てに彼は自由を手に入れた。でも私はその上司はギャグがおもしろいし可愛いところがあるからどちらかというと好きだ。今日も彼は舌打ちをしながら必要以上に大きな音を立て仕事をしてた。彼の仕事量は会社一と言っても過言ではなく、彼はとっくの昔に壊れていて、つまり彼はただのイライラしてる小者ではなくて、むしろ「仕事」というものは誰よりもできるのであって、そしてイライラしてるときに経理のおばさんからお土産のお菓子をもらった彼はふと我にかえって「なにこれ。モニュモニュしてる…」と呟いて経理のおばさんがなぜか「モニュモニュって言わないで!」と言った。彼はおそらくモチモチ系のお菓子が好きなのが好感が持てる。なぜ私がそこに注目するのか? 問題は彼がふと我にかえったときのそのかえり方であって、ああいう怒りも間抜けも隠さないところを見るとやっぱり陽キャは開けていると思う。開けていると声がでかいし喋りがうまい。人に話しかけられたときに最初から窓が開いているからすぐ顔を出せる。いいな。でも皆死ぬ。窓の外には誰もいない。内側には自分らしき何かがいる。普通の日記になった。

2018.5.18

乗り切った。一日が終わった。一日が終わったって何だろう。でも日は去った。本当は去ったのではなく地上は回転している。日が去ると暗い。日と言えば私の上司はしばしば太陽に例えられる。知らないがそうする。バガボンドで武蔵が柳生石舟斎に刀を向けたときに包み込まれるような大きさを感じ「ああこの人は山だ」と言った。彼は齢を70を迎えようとしている。肌は日に灼け頭は荒野のように激しく禿げ上がっている。眼は火種のようでもあり獣じみていて怖い。彼は僧侶の家に生まれた。達人伝のなかで王齕は「若い頃は自分のなかの獣に手を焼いた」と言って人を殺しまくる。彼は家業を継ぐ気はなかった。彼は呼ぶ声に家を出たがそれは仏のものではなかった。と言える。あるいはそれは仏のものだった。知らん。それは長きにわたる不毛な反抗であった。彼は20歳から十数年間山という山に登り続けた。反抗は常に人を狂奔へと駆り立てる。八月の光で神に追われ続けたクリスマスのようと彼を言えばよいか。あるいは神から見放され続けたハイタワー牧師のようか。いずれにせよ仏に背を向け家を出た彼は、奇妙なことに山頂という神的な領域を目指し続けたと言える。山岳連合に所属し旧ソビエト連邦の招致で過酷な雪山に登った。遭難救助やガイドを行った彼はまるでヘラクレスのように岩をよじ登る。山菜を摘み浴びるように酒を飲む。煙草は噛む。声がでかい。眼は獣じみている。そして「ああこの人は山だ」という武蔵の言葉を思い出す私は知略と武勇を兼ね備えているこの化け物を尊敬してるというかやる奴だと思う。できれば超えたい。というとまるでリクナビか? リクナビって嫌だな。リクナビの言ってることやってることを聞くと李牧が趙王に対して感じた「暗い……あまりにも……」というセリフを思い出す。そして清水が会社の人間たちについて私に話したときの、「生きるか死ぬかで泣くんじゃねえよ!」という叫びを思い出す。でも彼、獣のような私の上司にはきっと、繊細な内面なんてない。それがあるがゆえに生まれる私たちのような叫びはない。かと言って趙王のように曲がったところはない。というよりむしろ彼のなかに底知れない怒りや欲望があるのは確かだが、それはやはり彼の場合はもっぱら山々の頂上を目指すという具体的なアクションとしてあらわれたんだと思う。それは感動的なことではないか。それは涙のいらない死や生というものを、この上ない満足なかたちで表しているとは言えまいか清水。「目の前で落ちた奴、死んだ奴は数知れない」と上司は言ったんだ清水。「俺だけジジイになるまでのこのこ生き残っちまったぜ」と奴は言ったぞ清水。 死ぬ覚悟ってなんだ清水。死ぬってなんだろう。 俺は疲れたから寝る。読書は明日する。

昨夜–朝–出勤

寝ようと思ってたら清水が池袋にきた。畠山も仕事が終わった。真夜中0時から寝ないで飲みはじめた。そのあと清水とふたりで池袋の西口に行ったら誰かの血が地面に落ちてた。通りにはゲロがあった。私たちはコンビニで楽園ワインを買いなくなったら目に付いたコンビニに入って小便する。また買う。飲む。歩く。捨てる。話しかけられる。無視する。さっき居酒屋にいたとき畠山のノート見せてもらった。「死ぬ覚悟」と小さく走り書きされていて死ぬ話になった。おまえは死ぬ覚悟が薄れてきてる、みたいなことを清水から言われたが私は現場に入るようになってからすべての想像に無限のプロセスが見えるようになった。想像力というもの、インスピレーションというものはその構成過程、を一瞬ですっ飛ばすのだ、そういう特性があるのだと私は現に知った。そして死ぬということは、覚悟とか理念とかそういう言葉に彩られてもろもろの死に至るプロセスをすっ飛ばされた単なる想像に、そのときはまだ過ぎない。私たちはそれをやがて身体で知ることになるだろう。と私は思う。それは人の身体が死に至るまでの無限の情報量と想像の及ばないプロセスをひとつひとつ痛みや苦しみとして感じる一連の経験のことを死と呼ぶ可能性がある。もしくはわからない。死んだことはない。昨日でもそういうことを考えたけど疲れてたから喋るのめんどくさかったから言わなかった。ちょっと言ったけど酔ってたから何言ってるの?と言われて終わった

また4時半が近い。何にせよ逡巡の余地はない。好奇心で社会に出たのがこんなかたちで身体に返ってこようとは。まだ折れるのは早い。明日は本当にでかい現場だでかい現場は重く深い。しかし思考という鍵で重りは解除しなくては。呑まれると死ぬ。眠い。ベランダに猫来てる。

2018.5.14

アークティックモンキーズの新譜がでて、それを買って聴いたのはさっきだから日が沈んだ後だった。それを買ったのは池袋のタワレコだから私はその前はA区の施行現場にいた。そこへ行ったのは私は朝の4時半には起きて荷物を抱えて電車に乗って行った。それが今日の朝のことだから日が昇る前だった。3F渡り廊下の流し台の取り付け時には朝日が真向かいのガラス戸から強く照っていて職人も私たちも暑くて汗だくだった。ガラス戸ははめ殺しのため風が通らず、木材を切り出すたびに木屑が舞ってみんな鼻水と咳が止まらず具合が悪かった。小学校の増築工事なので閉め切られた簡易扉の向こうは既存の校舎で小学生たちの授業を受ける声やチャイムや校内放送が聞こえてくる、というような現場だった。土曜日の搬入日には既存校舎から物の運び込みが行われたため、チャイムが鳴り休み時間になるたびに私たちは作業を中断しなくてはならなかった。2Fの渡り廊下の流し台は3Fの同箇所の真下にある。さっきは真向かいの朝日だったのが今度は真後ろからの西日になっていた。清水の「地球、難しいな」という言葉が脳裏をよぎった。この地上は動いている、ということだった。それが行ってしまった。やがて日は去り暗くなった。暗くなって私は池袋のタワレコCHAIというバンドの新譜を買った。家に帰ったらもう完全に日は行ってしまった。また次の4時半が近い。はやく眠らないと現場では100パーセントの覚醒状態じゃないと物理的にも精神的にも死ぬ。CHAIの新譜。私はフェスで現に彼女たちをステージで見たときもっと楽しく騒げるかと思ったら全然違った。むしろ息を呑むような体験で私はショックだった。新譜を聴いて私はやはり感動した。そしてアークティックモンキーズは、かつて英雄だったチバユウスケポールウェラーが今やただの気難しいロックの老人になりつつあるあの哀れな姿に、アレックスターナーがいま重なる、といったような感じであった。しかしまだ一回しか聴いてないのに悪いことは何も言えない。というか一回しか聴いてないからまだ良さがよくわかっていない。ただおそらくアークティックモンキーズの器用貧乏な部分が最も色濃く出ているアルバムだったといっても過言ではない。アークティックモンキーズはどんどんムードミュージック化していく。それは多かれ少なかれ彼らの意識的な作風によるものだが、もはやすべてが食傷気味というか中身のごっそり抜けた形式的なものに終始している。とエラそうに私は言う。ただ彼らは前回の作風をまだ引きずっている。前回のアルバムはAMという題名でこれまでのアークティックモンキーズを一括し刷新するような内容だった。2枚目のアルバムで突如ロカビリーに接近しまた離れたあの路線を極限まで突き詰め重いプレッシャーの一音一音で構成された隙のない…などとまたエラそうに言ってもしょうがない。ただAMというアルバムは本当に格好良かった。たぶん目立つアルバムだったが故にこれは駄目だ!と言う通な人もたくさんいただろうが、通な人というのはだいたい曲を聴いてない。だから私も最近のチバユウスケポールウェラーも曲を聴いてないので本当に彼らが精神的に死んだのかどうかは私のイメージでしかない。アレックスターナーもそのうちただの女にモテるジジイになって終わるだろうというのは私のただのやっかみに過ぎない。アークティックモンキーズの新譜は前回よりさらにアメリカ音楽に接近した。接近というより現代風の解釈でふたたびそれを立ち上げた。それはボブディランとはまったくちがうアプローチでかつ長続きしない形式一本に支えられたものだった。ただオシャレで格好良かった。でもそれだけだった。しかし何回も聴けば変わるかもしれないのでまだ結論は出せない。というかエラそうに言っても自分が小さくなっていくだけでどうしようもない。ただ前回のアルバムは改めて比べて聴いてみると段違いに良かった。R U mine? という曲があって何回聴いてもどうやって作ったのか疑問に思う。重々しく、稲妻のようにカクカクしている。

2018.5.8

Wは1500である。Wというのはワイドと読む。数字はミリメートルを表している。しかし人工大理石は大理石の模造品である。大理石というのは気の遠くなるような年月をかけて冷えて固まった溶岩の一種である。すべての鉱物の起源は火である。火は地中深くに発見されるまでは天にあった。それは太陽のことで、円という概念はそのようにして地上からそれを見上げた人間たちのなかにはじめからあった。火ははるか昔タイタン族のプロメテウスが天より地上に持ち帰ったものだ。かくして火より生まれたあらゆる物質に人間の起こす新たな火が加わった。それは人工物というものだ。大理石は加工されてはじめて人の神殿になりうる。その大理石を木々の蜜から生成したのが人工大理石であり、これは混ざり物の鉱物であった。Wは1500でもそれは製造過程で収縮を起こし大きくて3ミリほど縮まる。しかしこれは、事実だがただの言葉に過ぎない。そして語った現実と語られた現実は違う。なぜかはわからないがそういうふうにできている。私がいまいるのが語られた現実だ。私がいま触っているのが語られた現実だ。めちゃくちゃ重く、荒々しい厚みがあり、粉っぽく、つるつるしており、持ち上げた手のひらに食い込んで痛いという感じがそれは人工大理石だ。という真面目に文学的描写で言ってもここは施工現場であり、ここにはすべて確定的な事実しかない。何をもって確定的とか事実とか言っているかというと私のそれを担保しているのはこの人工大理石という現にそこにある物質でありそれを持っている私の皮膚感覚というか視覚というか身体を起点にした感覚のすべてだ。これらはすべて一瞬のことで私の意識にまだ言葉として浮かび上がってすら来ていない感覚だ。それはフォークナーの八月の光でいうところの意識の流れというもので、この小説では人物の意識の流れがイタリック体のフォントで書かれる。日本語ではゴシック体になる。リーナの「あら、〇〇だわ」。クリスマスの「俺は何かしでかすぞ、俺は何かしでかすぞ」。そしてハイタワー牧師は初めて祈る。「ああ神様、どうぞ私に力をお与えください。どうぞ私に、神様、力をお与えください」。それは物語のクライマックスの凄まじいシーンだ。ゴシック体のそれは人物の気持ちや内面を描写するものではなく単に、何者かによってそれを意識させられているという、不気味かつ神聖な何か超越的なものの意思を感じさせるが私にはまだその意識は流れていない。私はハッキリと頭のなかで何だこれ?!と思った。何が起こったのか、という経緯は非常にややこしく入り組んでいる。一言で言えば発注ミスだが、これは私の上司が的確かつ迅速な判断をしたがゆえに起こった、現場というある種特殊な世界で起きる奇妙な宿運のようなものだ。そしてその現場には私がいる。私は現に色間違いの白色の部材を手に持っているが、そのWが1500なわけだから重量はざっと10キロくらいはある。ちょうど紀元前241年に趙国李牧が引き起こした六国による巨大連合軍「合従軍」によって攻められた秦国が自国の持てる軍力のすべてを総動員し、国門「関谷函」によってこれを迎え撃ったように、我が社の名だたる将軍たち、みんな辞めたからいまは二人しかいないが、凄まじい物量が予想される過酷な夏工事を控えたなか彼らは結集され、みんな辞めて人手不足だからだが、私は急遽そこへ徴兵された。「内からの台頭が無ければこの国は滅ぶ」と麃公将軍が信に告げたように「夏までに仕事を覚えろ」と言われて私には上司ができた。私がなぜどうしてこんなに現場にいて楽しいのは、不可能なことをやれと言われているからというほかに、上司が私に言ったひとつの言葉があるからだ。と言うと、まるでリクナビだ。「ここでは『たぶん』とか『思う』とか言うな。確定的な事実だけ口にしろ。ここにあるのは机の上で書いた設計図じゃない。ここにあるのは確定的な物質と事実だけだ。だから俺とお前は対等だ。俺は社長のやり口とは違う。お前は思ったことを完全なかたちで相手に伝わるように口にしろ」と、こんなことは言っていないがそういうようなことを言った。それは私がいま手にしている発注ミスの物体とまったく同じレベルの事象だ。この物体は消しゴムで消すことはおろか、何をどうやっても動かすことができない。私の知覚がそれを証明している。捨てればなくなるし、置いておけばいつまでもそこにある。休憩時間に私がそれを職人に話したら職人は結構ウケていた。常に物理法則という条件に拘束されている現場の人間は抽象的なことは決して言わず、荒っぽく、やけに開けていて、そういう世代の人が多いというのもあるが、今日はじめて会った職人は少し毛色が違って、私が叫びたかった現実の衝撃というものに結構共感してくれた。「俺はいつも夢を食っているバクさ」とその人は言った。わけがわからないと思うが私は爆笑した。確定的な事実を言う。私は社会に出てみて良かった。おそらくこの夏、私は死ぬ。だとしてもそれが楽しみだ。つまり現実というのは消しゴムで消したりマウスポインターで動かしたりできない物質と人間とに満ちあふれている。それが恩寵でなくて何か。という話で、でもこの夏に自分が死ぬと思うとすこし怖い。だがここにいるのは本当に、小説というものを考えるのに役に立つ良い場所だ。