剣の名前

デナーリス・ターガリエンは奴隷を解放した。163人の支配者すべて殺した。ミサ(母)という言葉で崇められて神格化した。

ジョフリー王は死んだ。毒殺の容疑でティリオン・ラニスターは拘束された。彼の幼い妻サンサは王都から脱出した。脱出の手引きをしたのはベイリッシュ公だった。彼は狂っていた。「七王国」などただの囲いだと言った。混乱はハシゴであり、昇ろうとする者は滑り落ち、戻ろうとするものは永遠にどこへも行けないのだと言った。混乱を混乱として享受せねば、我々は何もなし得ないのだと言った。よもや「王国」など夢まぼろしに過ぎないと言った。どうしてジョフリー王を殺したのか、とサンサは彼に問うた。自分には動機がないのだと彼は言った。「動機がない者は疑われないのです」と言った。心の動機や望みを相手に知られなければ、先を読まれることはないのだと言った。ほとんどの人は危険を侵さずリスクを避けることに腐心している、そして死ぬ、と言った。「私はすべてを懸けて望みを果たすのです」と彼は言った。「何を望んでいるの?」とサンサは言った。彼は「すべて」と言った。ティリオン・ラニスターは二週間後に無実の罪で殺されることになった。

片手のジェイミー・ラニスターは自堕落な騎士ブロンとの特訓で勘を取り戻しはじめた。同じ皮筒の水を分け合い奇妙な親密さを深めた。ブロンの助言で彼は地下牢のティリオンとの面会に応じた。ふたりは言葉を交わし合った。信用からでなくある種の疑念から彼は弟を信じた。彼は女騎士ブライエニーに自身の剣を手渡した。かつての敵であるロブ・スタークの大剣を溶かし二本の剣に鋳造し直したものだった。「サンサを救い、スタークへの忠誠を果たせ」と彼は言った。かつてふたりを敵意と応報の血で結びつけていたヴァリリア鋼の剣が、いま一人のスタークの娘を守るためにラニスターの手から彼女のナイトに手渡された。剣には名前が必要だと彼は言った。「制約を果たすもの“オウスキーパー”」だと彼女は言った。敵だったふたりは友として別れた。

騎士ダヴォスは文字が読めるようになった。幼女メリサンドルをしても彼を処刑することはできなかった。

サムはジリをナイツウォッチの城から仕事のある闇町へと送り届けた。100人の飢えた男たちに囲まれるよりは安全だと考えた。驚くほど世間を知らない彼女は自身のサムへの気持ちを理解できなかった。ただ彼の名を貰った自身の子を胸に抱き新しい世界へと入っていった。

ジオ・モーモントは死んだ。部下の謀反を受けた。壁の外で彼の部下たちは脱落したナイツウォッチですらなくなっていった。彼らはジリの姉妹であり母親でもあるクラスターの娘たちを犯し破滅へと向かっていった。ブランとジョジェンは彼らに捕まった。彼らのうちの一人がブランを見た顔だと言った。「スタークの息子だ!ジョン・スノウの弟だ!」ジョン・スノウは彼らの討伐軍の長として数人の勇猛な戦士を連れてふたたび壁を出発した。

アリア・スタークは父の仇であるハウンドと行動をともにしなくてはならなかった。あるときは彼の娘として身分を偽り農家に紛れた。かたときも針“ニードル”を手放さなかった。義兄ジョン・スノウが家を出るときに彼女に贈った剣だった。「姉貴を刺すなよ」と彼は言った。「サンサには刺繍針があるわ。私にはこの針がある」彼女は静かな復讐の炎を自身の針とともに研ぎ澄ませていった。

マージェリー・タイレルは夜のベッドに来た。新たな王として即位するジョフリーの弟はトメンという名の少年だった。「王妃になる私は永遠にあなたのものです」と言って彼女は水色の目を彼に近づけた。息を呑む彼の額にくちづけすると、凄まじい誘惑の余韻を残し去っていった。誰もかれもが勃起した。

サム

サムウェル・ターリーがホワイトウォーカーを殺した。“最初の人々”が残した遺産−−ドラゴングラスと呼ばれる黒曜石にも似たその石が、唯一ホワイトウォーカーを殺すことのできる武器だと彼が証明した。彼はとっさにそれをホワイトウォーカーの背に突き刺した。すべてジリと彼女の赤ん坊を守るためだった。ホワイトウォーカーは叫び塵となって消えた。八千年の壁がもたらす恐怖と不安を越え、ついに地上に希望をもたらしたのは残飯太りのサムウェル・ターリーだった。彼はジリを無事に壁まで送り届けた。メイスターは赤子を抱いた少女を見て取るとサムを睨みつけた。冥夜の守人〈ナイツウォッチ〉には俗世のあらゆるしがらみを断ち切ることが要求された。地位も穢れも罪も名誉も、そこでは同じように清算された。彼らの掟にはこうある。

“闇濃くなりし今 我が見張りが始まる 我が死まで終わることなし 我は 妻を娶らず 土地を持たず 子を作らず 冠をかぶらず 栄光を得ず 自らの持ち場で生き そして死ぬ 我は暗闇に生きる剣士なり 我は壁の見張り人なり 我は人々の領土を守りぬく盾なり 命と名誉にかけ ナイツウォッチに尽くす この夜とすべての夜のために”

サムは赤ん坊を自分の子ではないと言った。自分はナイツウォッチの掟は破っていないと言った。それは真実だった。「“人々”を守るのがナイツウォッチだ。違いますか?」と彼は言った。メイスターは得心したように頷くと、ジリを城に客人として迎える許可をくだした。メイスターは彼女の赤ん坊を指すと「名前はなんという?」ジリはやや迷い、考え「サムです」と言った。

 

シオン・グレイジョイ死す

ジョフリー王が死んだ。毒殺された。奴は狂っていた。叔父のティリオンの身体障害を嘲った。娼婦どもに殺し合いをさせて楽しんだ。多くの罪のない人々を殺した。ブラックウォーターの戦いでは真っ先に前線から逃げ出した。サンサやアリア、ロブやブラン、ジョン・スノウらの父−−エダードを殺した。歪んだ子供だった。不義の血だった。王の器ではなかった。

誰かが彼に報いを与えた。

右手を失い王都に帰還したジェイミー・ラニスターは弟のティリオンの厚情で彼の騎士ブロンから私秘の訓練を受けることになった。ブロンは元はただの殺し屋だったが、アリンの谷間にてティリオンに恩情を売ってからは彼のナイトとなった。彼はティリオンの護衛であり相談役であり、また同じワインを飲み明かす悪友でもあった。ジェイミーは残された左手だけで王の護衛を務め続けるために、一から剣技を習得し直さなくてはならなかった。

幾週にわたり拷問され続けたシオン・グレイジョイは性器の次にその名前を失った。彼は死んだ。“臭いもの”という新たな洗礼名を与えられた彼は、義弟であるブラン・スタークとリコン・スタークを殺すためにルース・ボルトンの落とし子ラムジーの奴隷として要塞ケイリンへ同行することになった。

幼いサンサ・スタークと政略結婚をすることになったティリオンには真に愛する女がいた。シェイという名の美しい黒髪の女だった。彼女は異国に生まれたが13歳には母とともにウェスタロスに渡った。9歳にはすでに女として客を迎えた。頭はよく切れた。勇気もあった。ティリオンは娼館で出会った彼女に惹かれすぐさま恋に落ちた。ふたりは長いあいだ王国の法に隠れて愛し合った。ティリオンの父タイウィンが“王の手”に着任し、彼と周りの人々に暗雲が立ち込めはじめてからはシェイをサンサの侍女に置き匿い続けてきた。しかしそれも長くは続かなかった。ティリオンは幼いサンサと結婚させられ、やがてシェイの存在は小評議会の連中に露呈した。「我々の友情は続かん」とティリオンはある日シェイに告げた。「“友情”ですって?」「船でペントスへ行け」「何を言っているの?」「個室付きの船が待ってる。海の向こうには家と使用人も」シェイは彼を見つめた。彼の言葉の真意を汲み取ろうとした。彼女は彼を信用していた。それだけでなく愛していた。「俺は結婚したんだ。妻をこれ以上傷つけたくない。誓いを守りたいんだ」「あなたはまだ彼女と寝てもいないじゃない。それに…」「貞節を守ったんだ」「恐れてるんじゃなくて?」「恐れてなどいない」「いいえ。あなたは父と姉を恐れてる」「ちがう」「逃げ回るのね」「ちがう」「そうでしょ。あなたはいつも…」「出ていけ」「嫌よ」「シェイ」「私は恐れないし、逃げたりしない!戦うのよ。私はあなたのもの、あなたは私のもの、そうだったはずよ。あなたは…」「おまえは娼婦だ!」ティリオンの声が部屋に響いた。小鬼“インプ”と揶揄される小人症の彼には広すぎる部屋だった。「サンサは…」「彼女は、スタークの娘だ!おまえは…、娼婦は、俺の子を産むのに適さない!おまえは何人の男と寝た!50か、500か!」「あなたは、あなたは、何人の娼婦と寝たの?」「全員と楽しんだよ!おまえが一番の楽しみだったが、それももう終わった!」シェイはついに涙を浮かべた。「君はペントスで悠々と暮らせるんだ」ティリオンは過去にそうするように、彼女に背を向けた。すべて彼女を救うためだった。愛した女は言葉もなく、ただ涙を流し、彼の元を去った。ふたりはあんなに愛し合っていたのに。孤独な心を通わせ合っていたのに。

妖女メリサンドルは暴走し続けた。

ブランとジョジェンは壁の外にいた。ふたりは空腹で気が触れかけていた。ブランは“狼潜り”を使って獣になり、いましがた狩った獲物を堪能していた。ジョジェンに無理やり起こされた彼は空腹を訴える。「狼になって食べたところで君は生きられない」とジョジェンは言った。「獣に長く潜っては危険だ。君は大狼じゃない。獣になり走り跳ねて狩るのは爽快だろう。しかし長く潜っては、人に戻れなくなる」

マージェリー・タイレルは、にまっとした口元のまま、狂王ジェフリーとの婚約を済ませた。彼女はそのあいだずっと、エロい表情だった。ふたりの婚約の儀には、シガーロスのメンバーが楽団として出演した。いたたまれなくなった王は彼らに金貨を投げつけた。「暗い演奏はやめろ!はやく帰ってくれ!」彼らは逃げ帰るように去った。

奇しくもロブ・スタークと同じ運命をラニスターの嫡子も辿ったことになる。彼は殺された。それはワインかあるいは銀食器に塗られた毒だった。狂王ジョフリーは、醜い口から血の混じった泡を吹き、苦しみながら死んでいった。誰からも望まれず王となり、生まれながらにして人を統べる才を持たぬ、不義の血が負うべき不毛な運命を辿った彼は、冥府の生贄となった。

ふたたび空になった玉座と、出来損ないの王を失った国土の上に、シガーロスのボーカル、ヨンシーの哀しげな歌声が響き、その話は幕を閉じた。そのほかにもエド・シーランやコールドプレイのドラマー、またウィルコ・ジョンソンなどが、その物語には役者として登場する。

シオン・グレイジョイの性器

北の王ロブ・スタークは死んだ。キャトリン・スタークも死んだ。王妃タリサと彼女のお腹の中の子供も死んだ。

スタニス・バラシオンは依然として妖女メリサンドルに熱を上げている。彼の騎士ダヴォスは地下牢で小さな王女から文字の読み方を教わった。

ティリオン・ラニスターは父タイウィンの策略によりまだ幼いサンサ・スタークと結婚させられてしまう、が初夜の床の儀を彼は彼女のため保留にした。もしくは自分のためだったかもしれぬ。彼は一樽ぶんほどのワインとともに意識も空にして眠ってしまった。

ロブ・スタークが惨殺され、何が起きたのかまったくわからない。彼の愛する妻と母も首を掻っ切られて殺された。

マージェリー・タイレルはいつも胸元から背中まで大きく開いた絹のドレスを見に纏い、男好きのする口元や目の動きをしていてエロい。しかし彼女は娼婦のそれではなく気品と意志の強さがあり未来の王妃たる器量を兼ね備えている。いつしかベイリッシュ公が彼女にバラシオン家の女王になりたいか尋ねた折、彼女は「いいえ。でも七国の女王なら」と言ってあのえもいわれぬ目つき、にまっとした口元、無邪気かつ傲慢で、凛とした気品をたずさえた声音、旺盛なきょろきょろした視線、栗毛色の波打った髪、水色の眼、にまっとした口元、何か言い出しそうだが何も言わない、じっと見つめながら何か言い出しそうな口をしている、何かを考えており、思い巡らせておる、「駆け引きは得意じゃありません」と彼女は言って、戦意も興味も好意も願望も、あのえもいわれぬにまっとした口元にたずさえたまま無防備に相手の前に出て行ってしまう、その愚かさと勇猛さ、あと狡猾さ、彼女は狂王ジョフリーの妃として自らラニスターの家門へ入った。

ブラン・スタークは夢の中で出会った謎の少年と現実でも出会う。ジョジェンと名乗ったその美少年は自身も緑視力“グリーンサイト”と呼ばれる特殊能力をあつかい遠くの出来事や未来の一部を見通せた。彼はブランを“狼潜り”の能力者だと言った。壁の向こうにはそれを使える野人がわずかにいるといううわさだが、ブランの力は並外れており場合によっては人間の身体にだって潜れるかもしれない。彼らは夢に予知した三つ目のカラスを探し出すために壁の向こうを目指しはじめた。ジョジェンはブランの“狼潜り”を利用して、彼をそのカラスの中へ潜り込ませたいようだがよくわからない。

シオン・グレイジョイは何週にもわたり謎の拷問を受け続けている。今回彼は性器を失った。

アリア・スタークは兄弟団の一味から逃げ出すことに成功するが、先の攻城戦で狂王を見限り王都からとんずらした騎士サンダー・クレゲイン(通称“ハウンド”)に見つかり、捕虜として拘束されてしまった。彼女にとって彼は父親の仇でもあるが、戦力の差と利害の一致とから彼と行動をともにし、彼女は兄でもあるロブ・スタークが惨殺される現場に運悪くも居合わせてしまった。ハウンドが彼女を守ってくれることを祈るほかない。

サムウェル・ターリーはナイツウォッチの一味を離れ、不徳なクラスターの娘であり妻でもあるジリと彼女の子供を守るためにともに行動し、壁を越え戻ろうとしていた。彼は剣もまともに扱えず、勇気もなく、ひどく太っていて体力もなく、だらしなく髭もじゃで、とびぬけて頭が良いわけでもない、だが壁とその向こうの世界のなかで、彼ほど優しい人はいなかった、彼は恋に落ちた少女のために、彼女と彼女の生まれたての赤ん坊を連れてあっさりと仲間の群れから離れ、能天気に来た道を舞い戻ってしまった。彼はナイツウォッチとして壁へ連行されるまえはほどほどの裕福な家庭で、知力はなくとも書物の中の知識やできごとを頭に詰め込むのが大好きだった。彼の知識が壁の向こうで役立ったことはいくつかはあったかもしれぬ。しかしそれは誰かの命を救うようなものではなく、せいぜい地所案内的なうんちくや気紛らわしのための小話程度のものだった。彼はいつも注意力散漫で、死ぬ間際の危険でもそれに気づかないどころか、何かと楽しそうに喋っている、喋りが上手いわけでもない、ただお気楽そうに喋っており、好きになった少女のために生死の勘定抜きであっさりと行動に移してしまった。彼が救った少女、ジリは驚くほど言葉を知らなかった、子供に名前をつけるという概念すら知らなかった。ひとりの不徳な野人の父のもと、閉じられた家で何年ものあいだ繰り返されてきた近親相姦の果てに生まれた彼女はまた、彼の娘であり妻としてその身に子を宿した。しかし生まれた子は男だった。子が男なら残虐な父はその赤ん坊を殺してしまう。サムは彼女を連れて逃げた。ふたりは終わらぬ冬のなか歩き続けた。そしてようやく壁へとたどり着いたとき、あたりが暗くなり、森の奥から何かが歩いて近づいてきた。それは真っ白な肌に真っ青な目をした何かだった。人間ではなかった。ホワイトウォーカーだった。

ジョン・スノウは壁の向こうで恋を知った。太后サーセイ・ラニスターは自身の運命に敗北を予感しはじめている。狂王ジョフリーには死神の迎え馬車が近づいているかもしれない。“王の手”であり当主でもあるタイウィン・ラニスターは自身の呪いのような血の制約と誓約の奴隷となることに甘んじているように見える。ティリオン・ラニスターにはまだ勇気と知恵があるようだ。およそ王族らしかぬ忌み嫌われる見た目に生まれた彼は、自らの運命に抗おうとする意志がある。「これはいつまで続くんだ?」「敵をすべて排除するまでよ」と太后は答える。「敵を排除するたびに倍の敵が増えていく」「まだまだ時間がかかりそうね」と言った。誰しもラニスターの子らは玉座の重みに堪え兼ねているように見える。眠るためにたくさんのワインを必要とする。一方捕虜として右手を斬り落とされたジェイミー・ラニスターは敵ではなく友としてはじめてブライエニーに向かい合い、彼女に救われた命の借りを返した。ブランと別れたリコン・スターク、彼からは、のちに英雄と呼ばれる者たちが発するわずかな光・灯火の予感のようなものが、今のところまったく感じ取れないが、彼にも何か運命があるのだろうか、しかしかと思えば、偉大な王になる運命を背負っていると誰もが思ったであろう“若き狼”ロブ・スタークは、戦場に死に場所を求めることすら叶わず惨殺されてしまった。彼の戦いはすべて無に帰してしまった。母親も死んだ。妻として迎えたばかりの若いタリサと彼女のお腹の中の子供も死んだ。全員首を掻っ切られ、タリサの膨らんだ腹は念入りに何度もナイフで滅多刺しにされてしまった。皆死んでしまった

 

デナーリス・ターガリエンは母性のみで万の軍勢を形成した。

一年前までは地位も名誉も奪われ、国土からも追放された伝説の王族、その末裔に過ぎなかった。彼女は卑しい兄にそそのかされ、その類まれなる美しさから東の蛮族の長の妻となり、毎夜犯され、しかし彼女は自身の身を守るため夫を悦ばせる性技を侍女から学び、やがて彼女が夜の世界から反対に彼を支配していくのを、同時に彼女は、だんだんと自分が彼を愛しはじめていることに気づく。彼の率いる軍勢が残虐な襲撃と簒奪を繰り返すたび、彼女自身が恐ろしい部族の儀式を幾度となく乗り越えるたびに、いつしかそれらの野蛮な生活は彼女の日常になっていった。未開のことばを覚え、その献身さと純真さから夫の愛を一身に受け、やがて彼女のなかに女王としての自覚が芽生えていき、夫を支配した彼女は部族の指揮をとるようになった。兄が蛮族の法に触れ、ついに無残な殺された方をしたときも彼女は眉ひとつ動かさなかった。「彼はドラゴンじゃなかったわ。火では死なないはずだもの」とだけ言った。無力な処女に過ぎなかったはずの彼女がどんどん変わってゆくさまを一番近くで見守り続けていたのが老齢の騎士ジョラー・モーモントであり、彼の胸中には一抹の不安と警戒心、戸惑いがあったもののあくまで気色ばむことはせぬ不惑の態度で彼女を守り続けた。やがて彼女は戦いのなかで夫を失い、代わりに三体のドラゴンと部族の永遠の忠誠心を得る。国土に伝わる伝説はターガリエンが竜の末裔であるということであり、彼女がそれだった。火では死ななかった。業火のなかで三体のドラゴンを孵化させた。ジョラー・モーモントの忠誠心はついに信仰心となった。夫を灼いた炎のなかから一糸まとわぬ姿で現れた彼女は、その瞬間から三体のドラゴンとすべての戦士たちの母となった。彼女は半壊した部族とジョラー・モーモント、それから生まれたてのドラゴンたちを連れ、玉座の奪還を目指し北上して行く最中、いくつもの数奇な運命に導かれた。自身に知力や武力を持たない彼女は、ほとんど純真無垢な母性と狂気のみで苦境と困難を超越していった。行く先々の小国で王や宰相などの支配者たちを殺し、同時に力を持たぬ民衆や奴隷兵たちを片っ端から解放していった。彼女の兵は一週間で数十人から万の軍勢へと変貌した。彼女を信奉する危険な騎士たちが集まりはじめた。彼女は幼い正義感と底知れぬ慈悲深さから道を求めるものすべてを懐へ招き入れた。ジョラー・モーモントは古参かつ正統な彼女のナイトとして、複雑な気持ちを抱きはじめている。それが恋なのか愛なのか忠誠なのか信仰なのか、いずれにせよ渦巻く情念に関わるものであることは間違いないが、もはや彼にも判別がつかなくなっている。ウェスタロス本土ではというと、ターガリエン家の生き残りの妹がドラゴンを孵化させたという話がどこかからか風の噂で囁かれている、といった程度のものだった。南から狂った母の軍勢が王都へ迫ってきているなどとはよもや思わん。それと同時に壁の向こう、はるか北側では、死者の軍勢を引き連れた別の脅威が王国へと迫りつつあった。

あらゆる断片的な物語が最終的にひとつの叙事詩へと収束するためには、デナーリス・ターガリエンのドラゴンたちはこの厄災に対する唯一の希望たりうるものでなくてはならないかもしれない。またブラン・スタークの能力が厄災を止める鍵となるか。もしくはジョン・スノウの新たな運命が閃くか。はたまたティリオン・ラニスターか、そのすべてか。また誰しもロブ・スタークのようにあっけなく散り、別のだれかが運命の担い手として現れるか。

 

20190613快感が尽きない

頭の中の言葉しかない。私たちは頭の中の言葉しかない。あと身体。泣きたくなる感動的な事実だと思う。頭の中の言葉は多くは“書き言葉”であり記されて読める文字であることが重要だと思う。私たちは頭の中の言葉と身体の快感しかない。人生ほかにも色々あるだろう…と誰かに言われてもわからない。おそらく私の周りの友人と呼べる人々もほとんどこれしか持ってないと思う。たとえば資格を取って独立するとかおいしいお酒とおいしい食べ物があればいいとか少しずつ幸せをつなぎ合わせる喜びだとかいかにして楽に金を稼ぐ方法だとかそういう望みがある人は少ないと思う。おそらく頭でなにか考えたり感じたり想ったりすることが、酒やセックスや買い物などの揮発性の悦びを超えて本当にイグごどだと感じてる人は多いと思う。私たちはある一時代の一地域にしか存在しておらず、きわめて限定された小さな時間しか生きておらず、それはこれからも変わらぬ。どれだけ長く生きても私たちの時間は大きくならない。同時にこの世はとても広い。酒やセックスや買い物の悦びはガスめいた気体のように霧散するかもしれない。でも頭で考えることも同じかもしれない。創造された作品、小説や詩や曲などは私たちが消えたあとでも残るかもしれない。でも私たちは一時代の一地域の一部でしかなく、それ以上にはなれないまま身体が死ねば終わる短い存在かもしれない。それはそうかもしれないがそうじゃないかもしれぬ。本当に楽しいことがこの世にはあると思われる。だが酒やセックスや買い物はそれを一緒にやる相手によって揮発性かどうかは変わるかもしれない。でも同じ秤にかけて計算してみたときに私は少なくとも頭の中でイグ思考そのものが一番大きくて深い快感になる。それが一番私にとって死ぬくらい突き刺さる快感になる。それを得るためには文字どおり人生という静脈へ意味を投薬するための読書が必要になる。あと知覚と認識は麻酔のような幸福感で身体へダイレクトに注射される。映画を見ても音楽を聴いてもどこかへ行っても同じくらい快感として感じる。でももっと強くて永い快感を得るためにはひたすらそれを続けて続けてあるときこれ以上ないと思ったら終わらせるかもしれない。と思われる。哲学や自然科学や数学や言語学歴史学はすべて人類の叡智とも発展とも記録とも貢献とも無縁なもののように思われ、ぜんぶブリーチを読んでいるときのように感じる。しかしそれは酒やセックスの揮発性に対する快楽の永遠性と矛盾するかもしれない。でも、ブリーチなどの、週刊連載の、少年マンガを、読んでいるときの、あの楽しさしかない感じこそが、私にとって永遠であって、何度冬が来ようと夏が来ようと、決して消えない快楽だと思う。〈否定神学システム〉…その概念それだけで、私はブリーチを読んでいるときのように興奮した。それは知的好奇心の本性ともいえる。知的好奇心が読書や研究と結びつけられて考えられるのは義務教育の産物かもしれない。知的好奇心は本当はもっとインスタントな快楽で、週刊連載のペーパーコミックの剣や魔法のバトルやToLOVEるのようなもので、哲学も自然科学も数学も言語学歴史学も神話学もすべてそれと変わらないかもしれない。この世は広くとても興味深い。この世は言葉でできておりそれを紐解くのが楽しい。それはガンダムでもゲームオブスローンズでも物語と呼ばれているものはすべて最上のオルガスムスになる。本当に面白く感じる。そしてこの面白さの次に何かあるとしたら、やはり自分で何かを創造することだと思う。やはりブラン・スタークは、選ばれた運命の少年なのかもしれない。彼は夢に現れた謎の少年から自身が“狼潜り”の能力者であると告げられる。そして彼の義兄ジョン・スノウは冥夜の番人〈ナイツ・ウォッチ〉として壁の北からの脅威、死者の軍団を率いるホワイトウォーカーと戦う仲間を募り始めた。“王殺し”ジェイミー・ラニスターは北の王を称するロブ・スタークの同盟軍団長に右手を切り落とされた。サンサ・スタークはベイリッシュ公の手引きによって王都を脱出できるかもしれない。アリア・スタークはラニスター家の追跡を逃れるために少年に扮し北壁のジョン・スノウと合流しようとするが兄弟団に捕まってしまった。彼女の針“ニードル”はだいぶ前にラニスター兵に奪われたきり戻ってこない。サーセイ・ラニスターは息子ジョフリーが狂王の一途を辿るのに歯止めをかけられないでいる。しかし彼女はまた別の運命も拒絶しようとしているようだ。“嵐の申し子”デナーリス・ターガリエンは沈黙の騎士ジョラー・モーモントと共に三体のドラゴンを率いて玉座の奪還を目指している。彼女らはついに狭き海“ナロー・シー”を渡るための一隻の船を手に入れた。大蔵大臣となったティリオン・ラニスターや“王の手”となり暗躍するタイウィン・ラニスター、またキャトリン・スタークや囚われの身となった騎士ブライエニーがいる。タイレル家やシオン・グレイジョイもいる。まだまだ快感が尽きない。

20190606最後のノルマ

シガーロスは故郷のアイスランドの風景をそのままメロディへと変換したと言われているが

しかし景色は最初からメロディなのではないかと私は思った。

そしてその景色は私がこうして地上の人間世界の特定の座標軸の上に存在している限り、たとえば日本というアジアの島国のとある東端の、また行政上に区分されたとある市区町村のとあるアパートの一室のなかに、唯物的な一個のボディを有したアニマルとしてそこに存在している限り…………………………………………………同時にあのアイスランドという景色・メロディも、絶対にどこかに存在しているはずだと私は思った。それを現にこの目で確かめに行くというのが、このたびの私の目的のひとつであった。それと同時に実際に海外へ行くということが具体的にどのような手続きを持って行われるのか知るための機会だった。実際は、簡易的で事務的な手続きの連続だった。ほとんどゼリーの中の果実の種を掘り当てるがごとく済むものであった。世界中のどこへでも、私たちは簡単に行くことができた。家を出て成田空港からスカンジナビア航空の飛行機に乗ってデンマークコペンハーゲン空港で降りた。昼の11時に出発して22:30まで飛行機に乗っていた。しかしデンマークに降りると昼だった。太陽が東から西へ地上の方角を去ってゆくのに私たちはひたすら西へ移動していたため、しかるべき私の時計が夜を指しても闇がやって来ないということであった。国際線の搭乗券に記載されている時刻はあくまでそれぞれの現地時間だった。11:04Narita→15:30Copenhagenと書いてあるのを実際は11時間近くシートに座っていた。窓側の席で外を見ていた。隣は中南米系の40代過ぎの男だった。機内アナウンスのすべてが英語のため何を言っているのかわからなかった。初老の金髪のキャビンアテンダントが私に向かって何か言ったが何を言ったかわからなかった。私はビアー・スプライトと言うとその通りにくれた。隣の男は慣れていた。細かく注文していた。ビールと赤ワインとウイスキーと炭酸飲料のようなものを頼んでいた。課金でスナック菓子を注文していた。座席のモニターでファンタスティックビーストを見ていた。笑っていた。持ち込みのアーモンドチョコと今買ったスナック菓子を食べていた。しばらくして機内食が出た。焼きたてのゴマのパンとバターとチーズとクラッカーとサラダとトマトソースの鶏肉とポテトが出た。となりの男はパンが温かいうちにナイフを入れてバターを差し込むと映画を見ながらそれにかぶりついた。チキンと一緒にそれを食べビールを飲むと最後に赤ワインを開けて残しておいたクラッカーとチーズと共に飲みはじめた。私は帰りの飛行機でこのやり方を真似した。それから彼はファンタスティックビーストを見終わるとミスターガラスを見はじめた。ウイスキーの小瓶を開けて新しく買ったスナック菓子を食べはじめた。私は運び屋を見た。そのあと女王陛下のお気に入りを見た。そのあとグリーンブックを見た。デンマークへ着くと夜中ではなく昼だった。

それから乗り換えてデンマークを17:30に出た。2時間乗っていたのにアイスランドのケプラビーク空港に着いたのが18:40だった。そのとき日本はだいたい深夜の3時半だった。それから1時間ほど空港でバスを待った。待っているあいだ通貨を両替した。アイスランドは気温が8度だった。秋か冬の空気の張り詰めた感じだった。そして空港の外はコンクリートの冷たい感じだった。そのなかにジェット機の鉄の焼ける匂いが完全にストーブの匂いだった。両替の受付の女性に55番バス乗り場がどこか聞くと「下へ降りて…」と言った。その後の言葉は聞き取れなかった。彼女はなにかの裏紙に道筋を描いて、

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「わかった?」と言ったので私は「トライ」と言った。彼女は笑って「がんばって」と言ったがそれは心温まる異文化の交流ではなかった、彼女の顔は微笑みや優しさというより表情筋のおぞましい躍動だった、彼女が憐れみから笑ったのか情愛から笑ったのかまた一種の諦観から思わず笑みを漏らしたのか文化が違うのでまったくわからなかった。しかし彼女は微笑んで「がんばって」というようなことを言った。私は手書きの地図を捨ててグーグルマップでバス停まで行った。バスはアイスランドの20:55発だった。そのとき日本で朝の5時半だった。昨日から続けて24時間ほど起きていることになった。バスに乗ると運転手から「where you go?」と言われた。私は地名を指差して「I cant read this」と言った。運転手はそれを見て「1,880kr」と言った。アイスランドクローナという名前の通貨だった。2,000クローナ渡した。席へ着こうとしたら「チップをくれるのか?」というようなことを言った。本当はなんて言ったのかわからない。私が「ノー」と言って手を差し出したら釣りをくれた。バスは1時間ほど45kmを行った。ホテルの近くのバス停で降りたのが22:05だった。アイスランドは日照時間が長くほとんどまだ真昼の明るさだった。私は海沿いの坂道を歩いて行った。誰も人がいなかった。あたりは甘草のハーブの匂いなのかわからなかった。甘ったるい杉花粉のような匂いが充満していた。これはアイスランドの匂いだった。途中でふらふらした男が道を歩いているのに出くわした。私が追い越そうとすると彼はろれつのまわらない口調で「are you ok?」と言った。ホテルに着くと22:30だった。ゲストハウスというところだった。部屋に二段ベッドが4つあった。仕切りはベッドのカーテンだけだった。二泊三日で6,000krだった。1kr=0.86jpyだった。しかし入口のドアに鍵がかかっていて開かなかった。私はあたりを見渡して夜の22:30だった。しかし真昼のように明るくあたりは誰もいなかった。郊外の路地を入ったところにある建物だった。首都のレイキャビクから8kmほど離れているところだった。車道を挟んだ向こう側にスーパーとケンタッキーとタコベルがあった。ゲストハウスのとなりには車のスクラップ工場のようなものがあった。通りの向かいには何が書いてあるかわからないアイスランド語の店があった。ドアに電話番号が書いてあったので電話をかけると私はチェックインしたいと言った。女性が出て左のナンバーを押せと言った。ナンバーは1,size,1,size、だと言われた。サイズの意味がわからないと私は言った。彼女は1,size,1,size繰り返した。サイズの意味がわからないと私は言った。#か♭のことをアイスランドではsizeと言うのかと思ってその組み合わせで押した。しかしドアは開かなかった。今行くから待っててと言われた。中から若い女性が出てきてドアを開けながら「1,5,1,5」と言って私を招き入れた。ファイブがサイズに聞こえたと説明したかったが私は英語がわからなかった。女は挑発的な目つきと口元だった。腰に手を当てながらしゃべり続けて部屋は階段を上がって7番でシャワーはすぐそこだと言った。靴はここで履き替えてベッドは空いているものをどれかひとつ選べと言われた。私は部屋に行って休むとシャワーを浴びて寝た。

朝の9時頃に起きたので8時間は眠った。カーテンを開けると夜の明るさと同じ明るさだった。日照時間が長く私はついぞアイスランドの夜は見たことがなかった。ゲストハウスはベッドとシャワーとキッチン等を提供するだけで生活用品は置いてなかった。シャンプーが使いたかったが持ってきてなかった。アイスランドのシャワーは温泉が出た。キッチンの蛇口からも温泉が出た。ゲストハウスを出ると世界最北の都市レイキャビクまで9kmほど歩いて行った。1時間半ほどかかった。その日は日曜日だった。民家に人影がなかった。人がまったくいなかった。車は少し走ってた。車道の端や丘の草原を歩いて行った。途中で鐘が鳴って時計を見ると10時だった。鐘の鳴るほうを見ると巨大な塔があった。先端に十字架があった。後から知るが国民の75%はキリスト教ルター派に属するが礼拝に通う信者は驚くほど少ないとのことだった。その他は古代北欧の神々を信仰している異教徒が各地に3,500人ほど散在しているとのことだった。レイキャビクは“煙の入江”という意味だった。ちょうどマコンドという町を築き上げたブエンディアの一族のようにレイキャビクにも語られるべき物語と伝説があるとのことだった。後にアイスランドと呼ばれる巨大な火山島に最初に上陸したのはインゴールヴルという名前の男だった。彼は家族と多数の奴隷を連れてノルウェーから海を渡りその島へ行き着いた。日本では貞觀24年なので1200年以上前の出来事だった。彼は島の東端からいくつもの山と川と溶岩に覆われた湿地帯を越え西の入江までたどり着いた。9世紀の植民時代に大掛かりな植林伐採が行われたせいで今はほとんど自生する木々が見られないが最初のアイスランドは緑の広がる島だった。最初はそこには北極キツネしかいなかった。レイキャビクに着くと街角の売店に入ってパンとジュースを買った。チョコのパウンドケーキみたいなものかと思ったら黒く変色した麦の乾パンのようなものだった。味は凄まじくまずかった。ジュースは炭酸のポカリスエットのような味だった。観光地の大通りまで歩いて行き屋台のホットドッグを食べたがよくわからない味だった。港がすぐそばにあり坂になった通りをまっすぐ上っていくとさっきの教会が正面に見えた。通りは土産屋やレストランなどが並んでいた。高円寺や下北沢にあるヨーロッパの古着屋に置いてあるノルディックセーターが大量に売られている店があった。子ども用の小さいものから手袋やマフラーやくつ下など羊毛の手編みのものでセーターはどれも一着30,000krだった。日本で古着で買うと一万円かもっと安く買えた。

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アイスランド語でお金はフェと言うとのことだった。これは羊と同じ意味であるとのことだった。その店を出るとすぐ近くにレコード店があった。そこはかつてビョークシガーロスなど地元のアーティストの交流の場でもあった老舗のレコード店だった。独自のレーベルも持っているとのことだった。アイスランドの本屋や土産屋ではビョークの作品が大々的に陳列されておりシガーロスはあまり目立っていなかった。スカンジナビア航空の機内サービスでもビョークは聴けるがシガーロスは聴けなかった。都市部の賑やかなレストランや店内から聴こえる有線の音楽はコールドプレイかアーケイドファイアの二択だった。レコード店の地下へ降りていくと無数のレコードがあったが値段はディスクユニオンと同じくらいだった。ムーンシェイプドプールのレコードがソファーの上に置いてあった。

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店を出て教会まで通りを歩いて行き、なかへ入ると巨大なパイプオルガンがあった。教会へ入るのは初めてだった。それから西端の港まで1時間ほど歩いて行った。海は寒々しくて黒かった。そこら中に溶岩があって変色した藻が張り付いていた。郊外へ出ると見渡す限り深緑の苔に覆われた美しい溶岩地帯を見ることができる。しかしそれは徒歩では不可能だった。それを実際に見たのは翌日の現地ツアーに参加したときだった。翌日は朝の5時半にはゲストハウスを出てまたレイキャビクのバス乗り場まで歩いて行った。7時半の集合時間が来るとロビーに搭乗者のファイルを持ったバスガイドの男がやって来て名前を呼ばれると私は手を上げた。バスに乗ると多くはヨーロッパ人の観光客のような感じだった。アイスランドに来てから日本人は一度も見なかった。金持ちの中国人の観光客のような団体は行く先々の観光地でたくさん見た。バスが出発し都市部を離れていくと見渡すものがどんどん遠くなっていった。多くは溶岩、低い柵に囲われた草原に散らばる羊、子連れのヤギ、放し飼いの馬、遠くの巨大な山々、沼地や鳥やモンゴルの白いテントのような地熱発電所などが見られた。バスが国立公園に止まるとガイドは乗客に向かって早口で何か言った。「9:30」と走り書きしたホワイトボードを掲げて見せたのでそれが集合時間なのだと思った。乗客たちが降りて行き、念のため9時半にここに来ればいいのか運転手に尋ねると彼は慌てて「いやいやここじゃないよ!向こうまわって降りていったところにあるB2で集合するんだよ!ここはB1だよ!」と言った。礼を言って外へ出て歩いて行くと丘の上に立って見渡す限りの景色があった。足元は溶岩で隙間を覗いてみると崖の下まで奈落だった。国立公園は地中の二つのプレートが衝突するちょうど真上にあり、坂を下っていくとまっすぐ続く道の両脇にふたつに分かれた岩石が天までそそり立っており、天頂の岩石のいたるところにペリカンのような巨大な鳥がいた。道をまっすぐに行くとB2がありその途中にかつて1550年の宗教改革時代に異教徒を処刑する際に使われた池があった。水の流れがものすごくほとんど滝のようだった。その上にかかっている橋を歩いて行った。振り返るとバスガイドの男がずっと後方で一人で煙草を吸いながらゆっくり歩いていた。紙ではなく電子タバコのようなものだった。東京なら多くが密集し過剰な供給や態度が求められるなか、アイスランド人は夕方には仕事を捌けて家に帰るようだった。昼間の店員や事務員もスマホをいじったり煙草を吸ったりしていてあまり勤労に従事していない印象だった。アイスランド人は抗うつ剤の使用率が世界でもトップクラスであると同時に幸福度調査でもトップクラスの指数であるとのことだった。20世紀までは人口が5000人ほどしかおらずそれも山々の各地に点在していて相互に交流はなかったとのことだった。日々の多くはドス黒い雲が低地を蓋するように立ち込めており晴れる日は稀とのことだった。

バスが出発すると次の目的地まで1時間ほど走り続けていた。ひとつひとつの目的地まで道のりが長くしかし景色は平坦でなく激しかった。人工物はほとんどなく時たま20世紀に散在していた島民の子孫なのか山の麓に煉瓦造りのような家がちらほらとあった。アイスランドの道は凄まじく長くもしもここを一人で歩いていたとしたら自分はバラバラになると思った。まわりは黒々とした海に囲まれ頭上は分厚い雲に蓋をされ、見渡す限りそこかしこに突き出たような溶岩と狂ったような茫漠さがある風土はそこに住む人々の気性に深く根ざしていると思われた。しかしその暗い雲の向こうにはオーロラがある。私はオーロラは見られず、まして夜すらも見ることができなかった。しかし暗い雲の向こうにはオーロラがある。それがアイスランドという土地でありアイスランド人というものだとするとまるで抗うつ剤と幸福度の統計指数が今ひとつの重力の願いにも似た約束によって結びつけられたような気がしなくもなかった。バスはゲイシールと呼ばれる間欠泉のターミナルで停車すると昼食も兼ねての長めの自由時間だとガイドの男が言った。ゲイシールというのは英語でガイザーと言って日本語で間欠泉と言った。クリスタルガイザーのガイザーでありカンケツセンというバトルチップの間欠泉だった。雨水や溶けた氷河が地中深くに流れ込み、気の遠くなるような長い年月をかけて地熱に温められやがて表面の冷たい水との温度差を起こし爆発するように地面から吹き出す現象のことだった。100℃近くあるので泉のしぶきを浴びた野蛮な西洋人たちは獣のような雄叫びを上げていた。山の斜面のいたるところに大小さまざまな泉があり白い湯気が立ち込めていた。泉は深く澄み煮えたぎっており、覗き込むと地中深くまでずっと見渡せた。風が吹くと湯気に包まれ寒かったのが暖かくなった。完全に温泉の匂いだった。山形の温泉掃除のアルバイトで服を着たまま温泉の湯気に包まれるあの感覚と同じだった。週に2日夜の11時から温泉掃除に入って終わると一番風呂に入ることができた。一度女性の先輩と二人きりになって先に湯から上がった先輩が「入っておいで」と言って私は心臓が射精するかと思った。アイスランドで幾度となくパンを食べたがゲイシールでは少し良いパンを食べた。サービスエリアのフードコートでパンとビールを買って適当な席に着いた。包みを剥がすとチーズバーガーだった。焼いてあるパンだった。肉やチーズも上等なものだった。輪切りの玉ねぎとピクルスも挟まっていた。ポテトが新鮮だった。遠くを眺めると巨大かつ底知れない風景だった。そのとき景色はメロディだと思った。今まで何度も思ったがやはりそうだと思った。シガーロスのtakkというアルバムを何度も聴いたが彼らがメロディにしようとしたのはアイスランドの土地に特異な風景ではなくこの眼差しの遠さそのものなのだと思った。そしてその風景は、誤解を恐れず言えば、この心に想い描かれるものそのもののことでもあると思った。キースジャレットが「心は音楽のあるところにある」と言ったのはイメージそのものの眼差しの遠さのことでもあると思った。そして私は思い出した。景色やメロディについて考えたりシガーロスを深く聴いていたのは山形にいたときのことだった。山形の景色は私にとって単なるいち地方の景観なのではなくで特別な景色だったのかもしれぬと思った。アイスランドから帰ってきてすぐに企業説明会の名目で社長とふたり東京から大学のある山形へと移動した。私は新幹線のなかでずっと景色を見ておりそれらはまるでアイスランドよりも美しい光景のように感じた。たしかに景色に優劣はなくとも山形とそれを取り囲む山々の景色、それを越えようとする国道や線路からの景色、その遠さの感覚、渓谷や葡萄畑や湖や河川の地形の感覚、というのは私は、むかし帰省や上京のたびにそれらを見ながらシガーロスを聴き、景色について考えていたことを思い出した。そしてそのときいつかアイスランドへ行って確かめてみようと思っていたことを、今こうして真逆の復路からの目線で山形の景色を見ていることに気づき、やはり山形は美しいところだということを思い出した。