20181018恋愛

誰かに何か話したい。そう考えると毎日日記ではなくイー・ボウ・ザ・レター的な手紙を書いてるのではないか、という間違いが、それより本当は話したいが、喋るのが苦手なのと相手がいないので結局書くほうが多くなるかもしれない。周りにいる友達に話せばいいじゃんと思われても実際それは難しいというか話し相手なら誰でもいいわけではないので、この前みたいに家で鍋とかすき焼きとか楽しいことをすることになっても結局最近の自分の話などはしないというか、話すこともないから思いついたことだけをたまに喋っているが、本当はもっと色んなことを話したいはずだが、自分から何も言わないのは単なる性格だからなにも考える必要はない。「クマさあ」と陽キャラの上司が最近なれなれしいというのは良い意味だが、「ぜんぶ自分のとこで止めて外に出さねえのすげえと思うわ。俺なんかすぐカッとなるもん」「机ぶっ壊したり社長に向かってクソジジイって言っちゃったりふつうだったらクビよ。でもあとですげえ反省すんだよな。すげえ恥ずかしいもん。でもそのときはカッとなるからわかんねえんだよ」と言っていた。つまり、ちゃんと口語体で会話文を書いているのはコミカルに再現しようとしているのではなくちゃんと彼が話したことをちゃんと書こうとしているからだ。でも文字には音がないから彼がどんな喋り方をするかわからないだろう。ものすごい滑舌が良くてベラベラ舌が回る。弁がたって頭の回転が速いので大抵の口論には負けない。少なくとも社長には勝つ。「落ち着け!落ち着くんや!」と昨日は社長にそう言わせていた彼は私からしたら理解不能のけだものだった。でも彼からしたら私がそうだった。「俺がお前について知ってることはあ」と彼の声を口語体で書いても伝わらないか。彼は28歳だったか。若くて中身も若い。服装も若くて髪型も若い。趣味はパチンコ。「まず何かバンドやってる。なんか本を読むのが好き。あとはわかんねえ」バンドはやっていないがそう言われた。「甘いな」とトムヨークの部長が彼に言って私のことを結構しゃべるやつだと言った。ずっと二人が会社について喋ってる横で私は聞きながら食べ物を食ったり酒を飲んだりしていた。ベラベラ舌が回るのはよくそんなに喋れるな。と感心するというか、その感心は皮肉じゃなくてサッカーの上手い奴のリフティングを見たときに感じるやつと同じだったから良い意味だった。ずっと喋ってやがるな。こいつ。と私は思った。私はこうやって三人でいるとき二人が喋ってるのをただ黙って横にいるのが好きというか居心地がいいというか、そういうとき大抵二人の方で会話が途切れそうになると急に「な?」とか言って肩をバンッと叩くとかしていきなりこっちに振ってきていかにも「な?」とか言って利用してくるがそれは私が喋らなかったのが悪いから私も「そうそう!」とか言ったり「え?」とか言う仕事をしないといけないが、それは役割だからそうやる。たぶん二人の方も二人きりでいるよりもう一人なんとなくそこにいる無口な奴がほしいんだと思う。昨日もそうだった。二人は先に上がって飲みに行って、会社の下にある居酒屋に行って「先行ってるわ!」と私は言われて冗談だと思ったのにしばらくしたら会社に知らない番号から電話がかかってきて取ったら「まだ?」とトムヨーク部長の怒ってる風のギャグみたいな口調で言われて急かさないで。と私は思って終わらせて切り上げて行ったが、結局二人はなんとなく喋らない奴が隣にもう一人欲しかったんだとおもうが、私はそういうのは好きだから構わないが、ただ不意に「な!」とか言われて即反応するという仕事をしないといけないのが役割だなと思いながらやっていたが、楽しいことには楽しかったが、なんでこいつらはこんなに会社のことを考えているんだ。と私は私でずっと考えていた。

どうしてそんなに会社のことを考えられるんだろうか。社長のやり方、運営のやり方、商売のやり方、教育のやり方、そういうものについて陽キャラの上司はずっと喋ってやがっていて「辞めてく奴の給料でもあげて引き止めでもしておけば年商なんてもっと上がりますよ。できるやつやれるやつなんてこれまで何人もいましたよ。社長そういう人たちみんな辞めさせてますもん。そのくせクソみてーな人材は残しておいて、ツブみてえな戦力で年商もっとほしいだの、じゃあ残しておけよってねえ? 人を育てろって話でしょ。最初の一年はしょうがないかもしれないっすよ。でも二年三年してみ?そいつ稼いでくるよ?人件費なんてこれっぽっちのもんじゃないっすか?それケチって、もと失って、それでもっと稼ぎほしいって、社長やり方間違ってるんすよ」

「え?それ俺たちの人生に関係ある?」ということを私はずっと思ってた。というか疑問だった。なんで他人の会社のことをこんなに真剣に考えられるのかわからないというか、どういう倫理や哲学でそういうことを考えているのか教えてみてほしかった。倫理とか哲学とかそんな面倒なものはないのかもしれない。だけど金のことや経営のことを考えるのが得意なんてすごいことだなと思った。それで私は思った。金というかそれは経済のことだ。経済というのはたぶん紙幣の価値という概念が付いて回るもともとは人と人との関係性のことで、もしも他者との関係性の相関図のことを何より経済と言うなら、彼がコミュニケーション能力に優れてたり交渉能力に優れてたりするのと彼が経済的な感覚や思考に優れてたりするのは、何か関係性があるのではないか。反対に私は、他者とのコミュニケーションに優れていないのと経済的な思考に欠けているのがなにか関係性があるのかもしれない。と思った。「どれだけ改善案を出してもこの会社は受け取らない。この会社は変わらない」ということを彼は言い続けていたがそれじゃあただ不満を話しているだけだから意味のない会話になるから意味がないからやめろと思った。少なくとも私にとっては意味ないし私の人生に関係ない話だからすごいどうでもよかった。自分の働きがどこにどれだけの利益率でまわっていてどういう利潤を得ているか、そしてそれが自分の取り分にどれだけ還元されているかなんていう全体の相関図の、どこが個人の人生に関係あるのか。と思った。でもそういうことを考えるには、そもそも経済とはなにかという問題を考える必要があるかもしれない。そして結婚できない男のようなキャラクターたちの立つ物語をつくるには、この経済的な相関図に関するセンスがかなり要求されるのではないか。と思った。誰かが誰かに何か喋ったり何かあげたり何か負わせたりして、それがまわりまわって全体の相関図にどう関わってどう動いていくのか、というところのセンスがかなり重要になってくるのではないか。と思った。そう考えると私がいつも物語のなかの二者関係というものに惹かれるのも、それがただ二人の世界だから、それがわたしとあなたというテーマだから、ひいてはそれがわたしとわたしのなかのわたしというテーマだから、そして最後にはその個が外に開かれて消滅する、私がいつもそういうテーマに惹かれるのは、経済的な相関図に関するセンスがコミュニケーション能力とともに抜け落ちているからなのではないか。だから結婚できない男というドラマにあんなに感動したのか。あれは、登場人物たちがほとんど動物的ともいえる非生産的かつ無意味で平穏なコミュニケーションをさんざんくりかえしたあげく、最後には、あれはまさに、最後のあのシーンのためだけにそれまでの時間があったかのようだった。「私はあなたとキャッチボールがしたいんです。ドッヂボールみたいに言葉をぶつけ合うだけじゃなくて、私はちゃんと、あなたと話をしたいんです」。夏川結衣がそう言う最後のシーンで、阿部寛はただ立ち尽くしている。「ボールは投げました」と言って立ち去る彼女、そして何日か経ち、ふたたび夏川結衣に会いに来た阿部寛がはじめて彼女にボールを投げ返すというシーンで、あれはまさに、あのシーンのためだけにそれまでの11話があったと思わせるほど良かった。胸がいっぱいになった。そしてあのドラマは終わった。

20181015

結婚できない男の登場人物たちはただそこにいる。物語を動かそうともせずシリアスな覚悟もなくただそこにいる。そこにいるというのは人の意識が広くて長い。彼らはいつか自分が死ぬことを知ってはいるがそれはいつかであって今ではない。明日ではない。明後日ではない。しばらくは長い。ずっと毎日がつづく。だから先のことを考えているようで考えていない、ようででも生きているあいだはなんとなく先のことを考えている。という状態がふつうに生きるということのような気がする。毎日というものはどんな危機をはらんでいようが、それがテロや戦争や災害などの異例なレベルであろうと、毎日というものは、かならず平穏につづくような気がする。だから何も起きない。何も起きないように見えて何か起きている。だから物語は動く、という絶妙な小手先が上手い。物語というより登場人物たちが動いている。それで時間が流れて出来事や関係性が変わったり変わらなかったりする。というのが上手い。ただそこにいて何か話している。自分とは何かということは考えない。自分というものを考えたりせず、口を開いてボカッとたくさん喋って、怒ったり笑ったり訝しんだり信じたり探ったり失敗したり奇妙に思ったり、互いにうっすら混じり合ってなんとなく繋がって離れない。というのが見ていて胸の奥に何か染み入るような、震わせるような溶かすような濡らすようなものがある気がしなくもない。ただ人間ではなく、動物的なコミュニケーションがこんなに良いものだとは。少なくとも私は余計なものを人生に持ち込みすぎた。居酒屋で知らない人と話したり、知らない場所で知らない人と話したり、あけっぴろげにタメ口を叩いたり、反射的に怒ってみたり、なじってみたり、延々と自分の話をしてみたり、もっと追いやってみたり、そういうのをもっとやってみたほうがいいかもしれない。それも楽しいかもしれない。結婚できない男の登場人物たちは人見知りをまったくしない。たまたまどこかで鉢合わせたなんとなくの顔見知りと、なんとなくすぐにお茶をしに行ってしまう。それでなんとなく話している。それは世間話というもので、話す内容じゃなくて話すことに意味がある。私はそういうのはしないしできない。でもその楽しさはわかる。現場にいるといかに世界がなんとなくのつながりで結びついているかがわかる。好かれたり嫌われたりするのに理由などというものはなく、だから笑ってさえいれば好かれるし素直でいれば好かれるし嘘をつかなければ好かれるということを私はなんとなくわかってきている。つまりなんとなくというのがいかに良いかわかってきている。自分の話などはどうでもいいが、結婚できない男というドラマはそれを、学問的な意味で学ぶことができる。人が生きたりするのに理由や覚悟がいかに不必要か、でも愛や信念や誠実さがいかに必要か、シンプルな動物たちの理論で学ぶことができる。だから齢66の上司はよく私に「何考えてんだよ?!」と言って、私は側から見て何か考え込んでいるように見えるのか、「悩む必要なんかこれっぽっちもねえじゃねえか!はやく電話入れろよ」とよく言われる。「悩んでないですよ!」と私は元気だったら言い訳するが元気がないときは唸って怖気付いたまま電話し始めるからそのときはうまくいかない。何事もうまくやるには元気と勇気と笑ってる自分が必要で、それを自家発電的に生産するにはやはりなにか支えがいる。その支えは隣にいる誰か他者という動物がその鍵になり得る。というのは「あたりまえのこと」と彼は言うだろう。すべてはあたりまえのことだ。あたりまえのことは疑おうが信じようがあたりまえのこととしてそこにある。だから結婚できない男の登場人物たちはただそこにいる。彼らはあんなにバラバラで別々で孤独なのに、本当は彼らは個々の集まりじゃなくて集まりや関係性そのものが一個の集であると言えるような、そういう類の、本当の意味で孤独とは無縁の連携が、私たちにとってはあたりまえのこととしてそこにある。じゃあ今日ははやく眠る。寝ているあいだも個は閉じることはない。夢ほど開かれた領域はない。現実と同じく、ということだ

20181014

達人伝のなかで紀昌という名の弓の達人が「生に息うところなし」と言って、願わくば死が安らかなものであることを、というようなことを言った。つまり何が言いたいか。何が喋りたいか。何が書きたいか。私は何が言いたいか。日記は書きたくない。でもこれから書くのはただの日記になるであろうか、しかし本当にあったことを書く。私はつまり私の家にいて、畳の上に座っていて目の前にテーブルがあってテーブルのまわりに私を含めて清水と畠山と牛渡がいてその真ん中に鍋があって、「しょっぱ!」と誰かが言って「しょっぱくない?」「まだ食べてない」と言って「具が少ない」「白菜は?」「カスみてーな春菊があるぜ」「白菜はないの?」「じゃあテメーが切れよ!」と牛渡が言ってネギの切っ先を思いっきりこっちに向けてきて私は反射的に目をつぶってビビってしまった。萎縮した感じを与えてしまった。「見ろよ、たぎるだろ?」「おまえこれ見て何も思わねーのか?」「肉だよ」「おまえ疲れてんのか?」「なんでみんな怒ってるの?」「一人だけ緊張感足りないんだよ」「緊張感いるの?緊張感いらなくない?」「金沢ねー良かったよ」「あー金沢良いよね」「あれ良いよね、あの」「兼六園?」「そう!それしかないんだよね」「そう!」「ハロウィンしようよ」「コスプレして、渋谷行って、そのままお酒飲みに行って」「なんで?何が楽しいの?」「やる前にさあ、言っちゃいけないんだよ。ジェットコースターもお化け屋敷もやる前からさあ、言っちゃいけないんだよ」「たしかに」「渋谷って、まだ懲りねーのかよ!」「そうだよ!危ないよ」「大丈夫だよ。私的には、牛渡はまずナース、そしてチャイナ服」「チャイナ服来たよ」「あの緑色のやつ?」「ちげーよ!」「出たよ。ちげーよってやつ怖いんだよ」「怒ってるよ」「なんでみんな怒ってるの?」「おい!」「え?!」記憶のままに色んな人が喋ったことをそのまま書いて、誰かがこれを読んだときにどういう感じがするのかわかる。私は小説的なものを描写するとしたら、今の姿勢なら、会話のシーンでこういう書き方はしたくない気がする。でも今は日記だから保坂の小説っぽくなっても構わないということか。意識して姿勢を正して書こうとしなくてもいいのか。でもそれは甘えか。じゃあこれはどうやって書くと一番良いのか。そもそも良いとは何だろうと思う。私はたしかにそのとき畳の上に座ってうしろの机の脚にもたれかかってその場の雰囲気を感じ取ろうとしていて、頭がまとまらなかった。これが今起きていることだとはわからなかった。でもたしかになぜかみんな怒りっぽい口調でまくし立てていて会話がまったく成立していなかった。それが結婚できない男というドラマの肝心のおもしろさであったのではなかろうか。結婚できない男では、登場人物たちの内面に焦点が当てられることはついぞなかった。彼らは性格も倫理も生活習慣もバラバラで、それで互いが互いを開けっぴろげに異物のように扱いあっていて、それでもただ出会っては無意味にごちゃごちゃ話すことをやめない、野生の動物のような円満な世界だった。あれはよくある人生というテーマの情緒的な人間ドラマなどではなく、むしろ成熟した獣たちの暮らすなんとなく広がっては続く時間や生というものを、この上ない素晴らしいかたちであらわしているユートピア的な世界であったと言え、そしてそれがかくも保坂的だったとは言えまいか。阿部寛国仲涼子は同じマンションの隣同士に住んでいるからときたま帰りがけにマンションのエレベーターの前とかで鉢合わせて、「あ…どうも」「どうも」、それで無言でエレベーターに乗ってそれぞれの部屋の扉の前に着くときに、「あの…」「ただの他人なら無言でもいいと思うんですけど、一応知り合いになっちゃったんだから普通何か話しません?」「……僕と話したいの?」「ていうか、知り合う前に戻りたいです!」と言ってバタンと立ち去る国仲涼子阿部寛も、互いが互いをなんとなく異物として扱っているだけで、とくにロマンスに発展することもなく、いや終盤でその片鱗は発動するが、それぞれがお互いの日常のなかをただ横切り、何かかわいい不満のようなものを残して立ち去る、別の種類の動物にほかならない。国仲涼子夏川結衣のことを「ひとりで漫画喫茶に来るさびしいおばさん」と陰口を叩く場にたまたま夏川結衣が居合わせて「あ…」「あ…どうも〜…」と気まずい空気になるのはその後彼女たちの世界において何ら深刻なドラマに発展しない。そういうのはこの現実ではよくあることだから、そのあと二人が仲良くなるのも何となくのことで、ふたりの会話の端々で国仲涼子夏川結衣の年齢と独身のことを若い女性らしく無邪気に無意識にトゲのある言い方でチクチク刺すたびに「…そうね!」と笑顔で耐え忍ぶ夏川結衣は穏やかで孤独な動物で、国仲涼子は若い生命力に満ち溢れた無知でのんきな動物に過ぎず、その何となくのつながりが、やがて強い絆になることもなく、ただ平穏に続いていく。というような素晴らしさが、昨日私のアパートの一室のなかにあったかもしれない。あれはそれだったかもしれない。あれはただの情動エネルギーの交換であって、それよりももっとぶつけ合いであって、配られた手札からカードを引いてお互いに何の心理も打算もなく出し合うだけの、永遠に続くような気がする不眠不休のゲームであった。畠山が立ち上がって牛渡を追いかけて、どすどす音を鳴らして、「あー!あー!」と言って「うっさ!」と清水が言っているあいだ私と清水は全然関係ない話をしていて、本当に近所迷惑なくらい二人は叫んでいて、いつのまにかそこらへんで横になって眠り始めた。私と清水は私のパソコンで過去の録音音源を再生して、いつかの村岡の叫び声が部屋の中に轟いて「ふっざけんな!ふざけんなよ!なんでこんな目に会わなくちゃいけねーんだ!ふっざけんなよ!」という声がひびいて、清水が大爆笑していて、二人は寝ているのに、女が二人も寝ているのに、見向きもせず、真夜中で、「ああ、村岡に会いてえなあ」と清水が言った。あれは清水の手札から一枚こぼれ落ちた。それは不意にこぼれ落ちたのを私だけが見た。と言うとありがちなシーンだろうか。そして私もいつの間にか横になっていて寝ていて、自分の現場の搬入施工日だったから5時に起き上がって、数分しか寝ていないが清水とふたりで家を出た。「エンジンかけてくしかねえな!」と言い合って元気に別れた。私はこの出来事が良かったと言うのではなく、言うのではなく、ただこういうことがあったと書くだけで、じゃあなんで書くかというと、わからない。私は寂しいのかもしれない。それはどうでもいい感情というものだが、これは事実かもしれない。だがそれは考えが足りない。じゃあこう言ってしまうか。「昨日こんな楽しいことがありましたよ」ということを私は書いた。以上で終わりです。

 

20181013フッ。戦国か。

そして目が覚めた。目がさめる前と私は同じ場所にいた。といえる。つまり布団の上であった。粘土細工の人形のクレイアニメみたいな感じで起き上がった。泥を引きずる感じでシャワーを浴びにいって歯を磨いて着替えてカバンを背負って家を出た。また大宮駅に来た。タクシーに乗った。この前のアメトークアイクぬわらがタクシーを止めるとき指笛をピューイッ!と吹いてから「タァクスィッ!!」と言うのを思い出して「それじゃ止まらへんやん、、」と宮迫が笑いながら言ったのがたしかにと思った。「こっち向かってなんか叫んでるだけやで、、」と言っててたしかにと思った。それでタクシーに乗った。降りた。職人の車の止まってるパーキングエリアまでいって荷物を運ぶのを手伝って無事三ヶ所取り付けが終わった。昼には終わった。それで昨日のことを思い出す。昨日私はアルコールに頭が浸かって眠る前に日記を書いた。いま思い出すともっと色んなことがあった。「俺は行ったことのない場所に行ってみてぇんだ」と彼・齢66の上司は言った。「よくかあちゃんと旅行に行くんだけどよ、」彼は自分の奥さんのことをかあちゃんと呼ぶのを隠しもせずに言うのが私の胸に熱く、遠い雨というものを降らすと言えなくもない。「かあちゃんなんかまた温泉行きたいだの、あそこ行きたいだの、俺はヤダよーッ!て言うんだよ!なんでおんなじ場所に行くんだよ!山だってなんだって、知らない場所に行きてえんだよ!」「そうだ、そうですよ!知らない場所を知るために山に登る、知らないことを知るために本を読む!同じですよ!俺は知らないことを知りたいんですよ!」「ああ。」文字に起こすとハートフルな会話になるかもしれない実際はもっとハートフルだったかもしれない。カウンターに並んで私たちの齢は40年以上離れていてグラントリノ的な映画のポスターみたいだったかもしれない。あとは何を言っていたか。「人が付いてくる奴になれ」と言われた。対魏戦のときに敵地の中で築城という戦法を使った王翦に対して、廉頗大将軍が言った「歪んでおる」という発言を思い出した。「たしかに飛び抜けておる。しかしこれはだいぶ違うであろう王翦。一副将に過ぎぬお前は、あろうことか自身の存在をこの戦の第一と捉えておる。自身を第一とする将は信が置けぬのだ」と言うシーンを思い出させる。王翦将軍は桓騎将軍と並んで秦国随一の曲者であり、自分のことを王だと思っている。彼は国家レベルの危険人物としてこれまで六大将軍のノミネートから除外されてきた。味方を囮に使ったり敵地に築城したり、味方も敵も同じ死の天秤にかけるような異様な作戦を窮地にぶち込んだり、しかし彼の軍略は必ず勝つ。彼は勝てぬと判断した戦はあっさりと退く。戦に対してどこまでも冷徹であり、絆や希望に対して無頓着な、不気味な仮面の下に神経系の途切れたつめたい眼がある。桓騎将軍も王翦将軍も、軍や国家が律する正規のルールから逸脱する破滅的で前衛的な危険人物であるが、こと戦に限っては彼らは並外れた才能を有する。しかし彼らは本当の意味での英雄になることはできない。ということを廉頗大将軍は言ったのだった。それは「歪んでいる」からだと。そして同じ意味のことを齢66の上司も言った。役職にこだわるやつ、嘘をつくやつ、卑怯なやり方をするやつ、「頭にくるぜ」と彼は言った。私はわかった。ストンと落ちるように理解した。こういう人がいるな、と思った。こういう人がいるぞ、村岡。清水。彼は会計のときに誰かの名刺を出して「効くよね?」と店員に言ったら店員がハッとして「ははっ!」と言って割引になった。その居酒屋の親会社の人と友達だから名刺を見せると割引になるらしい。いろんな人の名刺があって、「これは裁判官だな!こっちは弁護士だ!腕がいいんだ!」と言っていて「裁判したんですか?」と言ったら「ああ!勝った!」と言ってやっぱり勝ったんだと思った。しかし王翦将軍は、私にはわかる。ただの危険人物ではない。彼は何か、胸に熱いものを秘めている。全滅か勝利かの二択にかけ、趙国へと打って出た秦軍の総大将を担う彼は、そのなかで騎馬隊からある伝令を受け取る。「燕国が趙国へ攻め入った」とその伝令を受けた王翦の眼にはじめて火のようなものがちらつき「フッ。戦国か」と言うかっこいいシーンだった。

20181012②

何があったか。毎日私の身に何が起きているか。書く。今日は朝一番で起きて大宮へ行った。何時に寝たかがわからない。歯も磨いていない。布団の上に倒れている。起きてそのまま家を出る。電車に飛び乗って大宮に着く。それからタクシーに乗る。現場へ行く。私は少し恐怖を感じている。打ち合わせに来た。でもやることはわかっている。だからやる。終わる。歩く。歩いていく。セカンドストリートがあってなぜか入る。懐かしい気持ちになる。出てバスに乗る。大宮駅から岡部駅へ1時間ほど移動する。岡部駅から歩く。現場へ行く。所長に会う。頭がおかしい。1ヶ月間彼はなにも承認作業をすすめなかったらしい。「俺どうしたらいい?あ、俺のこと不審に思わないでね。俺のこと変に思わないでね」と彼は言って「だまれ」と思った。それから帰ると5時過ぎだった。齢66の上司と打ち合わせをした。それから結果をまとめて自分の案件の提出書類や連絡事項を済ませようとした。「メシ行くか!」と言われて「待ってください」と私は言った。「何分だ?トイレ行ってタバコ吸ってくるからそれで終わってなかったら帰るわ!」と言われてヒイイイと思った。「日曜日出てやりゃいいじゃん」と言われてたしかにと思った。それで彼と飲みに行った。楽しかった。いろいろと学ぶことがあるから楽しい。それは社会のことじゃないが社会のことでこんな好奇心はあってしかるべきものだ。「お前にだから言うけどな!」「誰にも言うなよ!」という話がいくつも出てきて私はうれしかった。私は彼のことが好きなのか。つまり彼が言いたいのは「人に信頼されろ」ということの具体的なやり方だった。そういうのを教えてくれるのが楽しかった。数字が苦手なんだと私は言い続けた。「財布出せ!」と言われて札を抜かれてこれがこれだけあって税金でこれだけ持ってかれるとして税理士をこれだけで雇って結果どれだけ残るかが損得ってもんでその損得ってのは生きるためにやるんだ。と言われてたしかに、と思った。「じゃあこれは貰っておく!」と言って胸ポケットにしまおうとするのがギャグセン高かった。なにが言いたいかと言うと私は運が良い。それだけだ。アドレナリンが私たちを近づける。

201810121024

恐怖はアルミニウムの味がする。懐かしい。アドレナリンが私たちを近づける。セカンドストリートへ行くと懐かしい気持ちになる。あらゆる郷愁が私を誘惑する。というシーンだった。新潟にあるセカンドストリートハードオフ、とかの古着屋とか古本屋の感じを私は高校生のときに行きまくっていた。あらゆる甘いものが私を誘惑する。シュークリームやプリンを駅では売っていて甘い匂いがするのが私を誘惑する。というシーンだった。幸せな人は何も考えず休憩にコーヒーと甘いものを食う。そしてあてもなく買い物したり夕飯の食材を買って家へ帰る。そういうものが私を強く誘惑している。でも今は私はそこへ行くべきではない。たぶん私はいつかそっちのへ戻ることになるが今ではない。恐怖はアルミニウムの味がする。アドレナリンが私たちを近づける。というようなシーンだった。と言える。つまり、つまり何も怖くない。そう書くと清教徒めいた澄んだ眼差しのテロリスト、といった印象か。ならばこう書くか。恐怖には具体的な対処法がある。私はそれをこれから学ぶ。それに要するアドレナリンはほんのひと匙で、必要なのは理性と知性である。私はそれをこれから学ぶ。死ぬ瞬間にどうすればまだ生きられるかを考える。そのやり方を学ぶ。私は想像するのと考えるのが好きだった。これからそれを自分が生きるために使う。諦めないのがこれほど楽しいとは。もうだめだー!とか言って膝から崩れ落ちるのが大学のときは好きだったのに、本当に死ぬかもしれないときは私はどうすればまだ生きられるかを真剣に考えていて、それがこれほど楽しいとは。まじめに真剣にやるのがこれほど楽しいとは。今やり方を覚えておけば仕事を辞めたあとにもっと楽しくなれる。もっとか?もっと楽しくなれるのか?今よりもっと?!!、、?いいいイグッ!!!!と清水は言った。彼が腰を痛めたときのこと、遠い昔のことだった

①〜⑥

①イー・ボウ・ザ・レター

恐怖はアルミニウムの味がする。というのはマイケルスタイプがインタビューでも言ってた。何かに恐れると口の中に鉄っぽい味がひろがるのが、アルミニウムの味だと言っていた。しかしこれは恐怖についての歌とは言えず、歌詞は誰かに宛てた手紙の形式をとっている、と言って歌詞なんてどうでもいいがR.E.M.はだいたいみんな歌詞を聴く。「歌詞を聴く」というのは、R.E.M.のボーカルの声と言葉はまさに楽器そのものであり、あれは舌と喉と呼吸とまなざしで構成された、と書くと文学的虚飾とでもいおうか、とにかくR.E.M.のことを書くのにR.E.M.の歌詞それ自体が私の書く文より優れているのにこっちが文学的にやろうとしても無駄というか邪魔だと言える。しかしイーボウザレターという曲はR.E.M.というバンドの極地である、という意見ではるか遠いむかし私と小澤さんの意見は一致した。そのころ我々の心はたしかにR.E.M.の曲のなかにあった。今は私の心だけがある。小澤のはドブに移動した。

②アンダートウ

意味は「引き波」であり高校生の頃めちゃくちゃかっこいいと思ってこの曲を聴きまくっていた。実は同じ理由で小澤さんも聴いていたんだった気がする。いずれにせよ①も②も同じアルバムの曲でこればっかり高校生のとき聴いていたが単なる偶然か、今すべてを聴きかえしてみてもこのアルバムが一番かっこいいというのが自明の理、しかしR.E.M.はオートマチックフォーザピープルというアルバムでものすごい評価され、それまでも評価されていたバンドだったが異常な名声を獲得した。たしかカートコバーンが死ぬ前聴いていたアルバムがそれだったという風評被害があった。しかしR.E.M.はこのアルバムを出したあとに「もっとだ」と言った。もっとだとは言ってないが「とにかく猥雑で一次元的で、めちゃくちゃなものにしたかったんだ」とインタビューでマイケルスタイプは語った。「マーシャルのアンプに繋いでエフェクターは無しさ。それで思い切りノブを回すんだ。歪ませてトレモロをかけるのさ」とギターのピーターバックは言っていた。私は高校生のときそのかっこよさに気づかなかったが、R.E.M.は次作でいきなり方向転換した。本人たちは原点回帰と言ったが、とにかくポップさを排除してメロディの良さは以前のまま、全曲一色オレンジのモンスターというアルバムをつくった。全曲一色というのは、すべての曲で同じギターの同じアンプでただノブを全開にしてるだけで同じコードでも同じテンポでも同じ曲調でも同じ音色でも気にしない、という極限まで退屈さを先鋭化したロックアルバムをつくり、これはいまでもブックオフにたくさん置いてある。必ず置いてある。だから小澤も私もブックオフで100円くらいで買った。だがそのかっこよさがそのときはわからなかった。今ならわかる。それが一番かっこいいアルバムだった。そしてその次に発表したのがモンスターと同じスタイルの延長線上にあるこの①と②が入ってるアルバムだった。

 

③周波数は何だ?ケネス

というタイトルの曲はモンスターというアルバムの一曲目で、今ではこれがR.E.M.で一番かっこいい曲だということがわかる。まさにこれが、ただアンプのみで歪ませた猥雑で一次元的でめちゃくちゃなサウンドというものだ。とは言っても明らかにギターソロのところはエフェクターかましているのではないか。とずっと思ってるが「R.E.M.とは、一部が嘘で、一部が炎で、一部が真実で、一部がゴミなのさ」とピーターバックが言っていたがかっこつけている。つまりアンプに繋いだ「だけ」というのはその一部の嘘に属しているようだ。

 

④クラッシュウィズザアイライナー

⑤アイトゥックユアネーム

二曲はまったく同じ曲だと言える。というのは聴けばわかる。何が違うんだと思う。だがわざと同じアルバムに入れて馬鹿にしてるのがかっこいい。

 

⑥ピルグラミッジ

というのは1枚目の暗いアルバムの二曲目ではじめて私が聴いたアルバムでブックオフで買った。それでこの二曲目を何度も聴いていて言葉にできないくらいうずうずしていた。つまり歌詞がブリーチみたいでかっこよかった。「君の憎しみは切り取られて遥か彼方。君の運は双頭の牛」